昭和20年6月22日、太平洋戦争も末期に姫路市は大空襲を受けました。

空襲の記憶を持っておられる方もこの頃では殆どないでしょう、かく言う私も経験しておりません。
最近ではイラク戦争の影響で「国際テロ組織」から日本がテロの標識にされているとの物騒な話もありますが
平和のありがたさを実感する為にもその恐怖の一端を紹介するページをこさえました。

初めにお断りしておきますが、これから紹介する文章はある本からの抜粋です
編集者の方にはHPに掲載することの了解をお願いする手紙を出しました(2002年の夏の事です)が返事をいただいていません。
純粋に平和を共感するという気持ちで文章を紹介していますので何卒ご理解とご協力をくださいますようお願いいたします。

川西航空機製作所空襲編

座談会

6月22日、その日はよく晴れた良い天気だったですね。
しかしその日に限って工場は防衛隊員を残すだけで全員に退避命令が朝から出ていました。

それは、出勤早々、私がたまたま用件で所長室にいた時に末永所長が
「今日はどうも来そうな気がするね」といっていたことを耳にしてから間もなくの発令でした。
私は本館防衛副隊長ということになっていましたのでその部署についていたのですが、さる4月に姉妹工場の深江の甲南工場の空襲時に
防衛隊員が外へ逃げることを禁じ、門を閉めたため多くの犠牲者を出したという事から、中島隊長と相談して、
いざとなったら誰の物でもいいから自転車置場の自転車に乗って何処へでもひた走りに逃げようと申し合わせておりました。
しかしそれでも工業高校出身の新米さんが対爆弾監視壕に入っていて、25`爆弾でやられました。

私もその防衛隊員だったんです。仕事の所属は資材係でしたが、現役の兵隊から帰りたて者ですから、「お前は防衛隊に付け」
と言われて、50人位の中の一人として空襲警報が出るといつも正門か東門に詰めていたんです。
みんな若い元気者ぞろいでした。兵隊あがりの者が多かったように思います。
空襲のあの日は東門へとんでいったんですが、さていよいよ爆撃が始まると怖かったですね。
私は4年間の軍隊生活で弾丸(たま)なんか恐くないぞと思っていたんですが、しかしね、前から来る弾丸には慣れていても、
上から狙ってくる爆弾は恐かったですね。
それで、7回か8回目くらいでの爆撃の時とうとう逃げてしまいました。

それでも、やぱり軍隊教育のせいでしょうか、爆撃がやんだら元の位置に戻っていきましたね。
しかし、9回目ぐらいでしたか、もうこれはあかんと思ったのでしょう、最後には市川の土手まで走って逃げました。
そこで見つけた壕にとびこんだんですが、中には大勢の人が入っていて、年寄りも若い者もみんな口々に「ナミアムダブツ、ナムアミダブツ」と、
一心に念仏を唱えていました。
それを聞いて、どんな人間でもいよいよ最後になると念仏を唱えるんだなあと私は思ったんです。

あの日、空襲の前に予備偵察だったのでしょう、グラマンが飛んできましたね。
みんなあれは味方の飛行機だろうと言ったりしていましたが、しかし、これはずっと後で聞いた話ですがアメリカは工場の写真を、
サクラの葉が繁った時と散った時の2回に分けて撮影していたということです。

ドッカーンと落ちたでしょう。しばらくして壕から顔を出してみると燃えている。
「やられた!」と喚いて、「それ、火たたきや」「消防車や」とあわてふためいたのですが、てんで手のつけようのないすごいもんでした。

私は3、4回目の爆撃の後こわごわ壕から出たんですが、今まであった工場の建物はけしとんで鉄骨だけになり、
あちらこちらで盛んに燃えているのを見て立ちすくんでしまい、あわてて壕へ引き返しました。
爆撃が終わって出てきたときその辺を見回ると野村君がやられている。三木君がタコツボから体をのりだして、
口から泡を吹いて死んでいるのです。
私はなんとも言えない気持ちでこれらの人々を担架に乗せて運んだんです。

私は防衛隊で本館前にいたんですが、爆撃のときは本館前の壕に入っていたんです。
あの日は本社から川西社長も見えていましたね。そして、末長所長も一緒にその壕に入って、全部で4、50名もいたでしょうか。
最初の爆弾が落ちた時、砂がザザーと落ちてきたのでみんな顔色が変ったのでしょう。
すると社長が「落ち着け、落ち着け」と盛んに叫んどりましたが、その声もひきつっとったように思います。

本館前のあの壕は空襲の直前に「建設」にいた私達が作ったんです。
あの程度の頑丈なものを2ヶ所作る予定だったんですが、一つ作っただけで空襲になり、他の一つは間に合いませんでした。
今でもよく覚えていますが、あの壕は壁厚1b、天井の厚さ1.2b、階段を下りたところに丈夫なドアを付け、
地上の入り口には爆弾避けの壁を1.2bの厚さにしました。むろんコンクリは全部手打ちでやりました。
しかし、あの壕が一つでも出来ていたので社長や所長以下50名近い人の命が助かったわけです。

なるほど、そうでしたか。命の恩人に対して28年ぶりに今深くお礼申します。

しかし、あの壕でもまともに直撃を受けていたらどうなったかわかりまへんなあ。
あの暴風除けの近くへ一発くろうた途端、壕全体がグラグラッと揺れてコンクリの壁に亀裂ができ、
胸が押しつぶされるような強いショックを受けました。圧死するのはこんなんかと思いましたよ。

それに電灯は消えてしまい、ラジオもプッツリ切れてしまう。ただ、ローソクの灯だけでじいっとしているより仕方なかったね。

退避壕は、当時「営繕」にいた私達も作りました。
それは各工場毎に4つずつ作ることになって作ったんですが、それは本館前のような立派なものでなく、お粗末な壕だったんです。
まず、地面を掘り、木のクイと竹とムシロで囲って、その上に土を乗せるだけの物でしたから爆撃の後で見回ってみますと、
影も形もなくふっとんでしまって、何の役にも立っていませんでした。
いや、それよりも、あんな壕でも頼りにして入り、命を落とした人があったのではないかと思うとなんとも言えない気になります。

ところで、あの当時よく聞かされていました爆弾の威力についてですが、50`爆弾(が爆発した)なら(その周囲)20b以内では、
壕に入っていても即死するということでしたが、あんなことはあまり当てになりまへんな。
私が退避してた壕のすぐ側に一発落ち、目の玉が飛び出るようなショックを受けましたが、
後で調べてみると壕から10b足らずのところに50`(爆弾の爆発による)大穴があいてました。(それでも生きています)
私はその時、聞かされてたことが当てにならんことより、もちょっと近くに落とされてたらと思うと、ほんまに冷や汗が出る思いでした。

あの時一番恐かったんは、壕の中で「シャー」という、あの不気味な落下音が耳に入ってくるときでしたね。
今度こそ自分の頭の上に落ちてきているような気がして、思わず身を縮め、耳をふさぎました。
そして、「ドドーン」という爆発音と強い風圧を受けた時「ヤレヤレ助かった」と思うんでしたね。

あの頃、学徒動員や挺身隊(ていしんたい)、それに、台湾の高砂族など、従業員が次第に増えて、
それまでの炊事場では賄いきれなくなってきたんで、市川工場(今の日の出町)の方に新しい炊事場を作り、
そこから各工場や寮へ毎日食事ごとに運んどりました。
トラックがもらえないんで、牛や馬に車を引かせて運んどりましたがあの日も私は昼食を積んだ車について、
工場の門まで戻ってきたとき空襲警報になったんです。
それで、牛を引いている人に「牛はそこらの木に繋いで、とにかく逃げろ」と指示しといて、私も逃げようとした時、
本館前で双眼鏡で空を見ている人がいたんで、それを借って南の方向を見ると、B29が大きく映った。

ハッとした時、そのハラから黒い豆粒のようなものがたくさんとびだしたんです。
それをジッと見ていると、こちらの方へだんだん大きくなって野球のボールみたいに飛んでくるのです。
すると「シャー」という変な音が聞こえてきました。
この時、後ろから誰かが「長谷川危ない!」と言って突き飛ばしてくれたんで私は前へつんのめりました。
と同時に「ドカドカドカン」と、耳が引き裂けるような音がしました。
そこで、こいつはえらいこっちゃと思って、ただ無茶苦茶に走って逃げたんです。
どこをどう走ったんか覚えていませんが、気がついたら市川の土手にへばりついていたんです。
ところが、後で空襲がおさまってから工場へ戻ってみると、もう全然見る影もない惨憺たる有様。
まだ煙がくすぶっとりましたが、門の近くにひっくり返った車を引いたまま死んでいる牛を見た時はさすがに哀れで胸がいたみました。
あくる日、ガソリンをもろうてその牛を焼きましたが、なかなか焼けにくうて困ってしもうたことをよく覚えとります。

それが空襲やなかったら、いい焼肉やったのになア(笑い)

あの時には馬も何頭か死んだと聞きましたね。

いや、しかしあの空襲の後で、焼跡から死体を探し出すのは何としても傷ましいことやった。
殆どの死体は真っ黒に焼けただれて、誰が誰やら全く男女の区別も分からん。
ただその死んでいる場所から推定して「これは誰それだろう」ということにして、その後で行方不明者の名前と照らし合わせたのでした。

焼けていない死者はすぐ分かりましたが、藤原の写真屋さんが、まるでエビみたいになって死んでいたし、
また、酒屋の三十石樽みたいな大きい水槽の中で死んでいた人もありました。
樽のかばちに手をかけたままの姿でね。

あの体操の志水先生なんか、影も形もなくふっとばされたらしく、カーキ色の服の切れ端に肉片が付いたのが散らばっていて、
そこに名前入りのシガレットケースが落ちていたんで、亡くなられた事が分かったんです。

また、安井さんなんかは靴で確認したんでしたね。

靴で思い出しましたが、あの当時では貴重品だったゴムの長靴を何処で入手したのか、新品を得意そうに履いていた青年がありました。
お天気でも毎日履いて出勤していたその「ゴム長さん」が空襲が終わっても見当たらない。
あの要領のいい男がおらんとはフにおちないのであちこち探していましたら、町防衛隊員からの連絡でわかったんですが、
京口駅前の退避壕の入り口で、崩れた土に半分埋まって死んでいました。
それが彼であることは、着ていた青いシャツと長靴で分かったのです。
むごいことに、頭半分を丁度スイカを包丁で切ったようにやられて、脳の断面が露出していました。

あの時には、あちこち逃げうろたえた人がよくやられたようですね。
藤原さんという方なんか、仲間と一緒に一旦は工場の外へ逃げたそうですが、また引き返してきて工場の中でやられているんです。

空襲の終わった後の午後でした。あの混乱のさなかに憲兵がやってきて、弾痕調査をやれというんです。
それで私は工場の青写真を持ってきて、まだ焼けている火や煙の中を駆け回りながら弾痕の穴を探して図面にその位置を記入していったんです。
まだあちこちに黒く焼けた死体が転がっていました。弾痕はたしか223ヶ所、ざっと300uに一発という計算になりました。
そして、その調査表をその日の夕方、憲兵隊と警察へ提出したんです。

私はあの日は出張でいなかったのですが「姫路空襲」を聞いて急いで帰り、それから三日間死体処理の仕事をやりましたが、
はや腐りかけたなんとも言えないあの匂いには参ってしまいました。
それで、時々特別配給の酒を煽って、その勢いでやったのですが、
中でも親しくしていた茂原市太郎氏の死体を見つけた時はことに胸が痛みましたね。

死体は一人一人、焼けたトタン板に乗せたり、当時使っていた木製の更衣箱に入れて、トラックで法華寺や船場の正妙寺へ運んだんです。
しかし、どれもこれも真っ黒な傷ましい死体で、私がはっきり分かったのは浜田真治さんだけでした。

当時、私は鳴尾の本社に勤めていましたが、丁度二十歳。
本社では私達のような元気な若者を集めて「アキツ共励隊」というのを作って特別訓練をしていました。
そして「姫路製作所がやられた」という知らせで、さっそく私達へ命令が出て、握り飯・たくあん・梅干などをトラック(木炭車)3台に積み込んで
駆けつけましたが、神屋町の陸橋の真ん中に爆弾が落ち、大穴が開いていて通れないので、そこで荷を降ろして運びました。
その後で、青山総務部長が職員を集めて、当時貴重品だったウィスキーを飲ませてくれたんです。
これは何かあるぞ、と思って飲んだんですが、皆座っているのに、場がないので私一人立っていたら、
「君は元気がよさそうだから」と、死体処理にまわされたのです。

何処でも爆撃の後では、天候が変化して黒い雨が降ります。
だからあの夜も雨で、ローソクの灯はすぐに消え、真っ暗な中にまだ所々余燼がくすぶっているなんともすごい夜でした。
その中で死体を捜して、それを担ぎ出すことは並大抵の勇気では出来んことでした。
第一、あのなんとも言いようのない臭気には息が詰まるようでした。
時々、酒をがぶ飲みして、その勢いでやったんです。
そのうち、いつの間にか夜が明けてたんですが、崩れた塀のかげで死んでいる女の人を見つけたんです。
あんな時ですから感傷的な気分などひとかけらもなかったんですが、その女性の死顔と死姿の美しさは今もまぶたに焼き付いています。
抱き起こしてみると、年は23,4の、穏やかなまるで仏像のような美しい顔でしたが、爆弾の破片でやられたのか、喉元をむごくえぐられ、
その辺に、早白いウジ虫が群がってうごめいていたんです。
私は、名も知らぬその女の人の死体を運びながら、
人間の運命の巡り合わせと戦争の悲惨さというものをこれほど痛切に全身で感じたことはありませんでした。

私は、姫路空襲のちょっと前に、トラックで神戸へ行った時のことが、大変参考になりました。
須磨の手前から家が焼けていて、あの国道と汽車とが交差しとる陸橋の辺りは炎々と盛んに燃えているんです。
私達は知らなんだんですが、神戸空襲の直後やったんですな。
その中をくぐっていくと、電柱が倒れとったり、電線がもつれてぶらさがっていて、うっかりすると首をひっかけそうでした。
御影辺りでは、家並みが一帯に燃えていて、焼夷弾が2bおきぐらいに杭のように落ちとりました。
また、道端の水槽の中に首を突っ込んで裸で死んでいる人も見ました。
私はこんな空襲のひどさを見ましたから、工場内で若い人たちばかり20人ほど集めて工作隊を作り、空襲に備えていましたが、
いよいよ姫路空襲の時には「みんな逃げろ!」と逃がしてしまいました。
私は後にしばらく残っていたんですが、だんだん爆撃が烈しくなるので「もう駄目だ」と思い、自転車で市川橋の近くまで走ると、また敵機襲来です。
無我夢中で自転車を投げ捨て、市川の土手に身を伏せましたが、その側に1b足らず、幹が小指ほどの太さのアカシアの木があったんで、
思わずその木の陰に身を縮めました。
後から数えると馬鹿馬鹿しいことですが、人間絶体絶命の時、「溺れる者のわら」ということでしょう。
あの当時、工場全員の40%近い人が女子だったということですが、女の方のご感想は?

女子はいつも警報が出ると外へ退避していました。「百計逃げるにしかず」で、あの日も早くから市川の堤防近くの竹薮の中へ避難していて、
いよいよ空襲になった時もそこから遠くに眺めてました。ですから、そんなに恐かったという記憶はないのです。
後で爆撃後の工場へ戻り、その変り果てた凄い様子もしばらく見ましたが、正直言って、なんだか予期していたことのようで、
あまり大きなショックも感じなかったように思います。
それから帰宅する時、県立女学校(現在の東光中学校の位置)の正門前に爆弾の大穴が道幅一杯にひろがっておりましたが、
そのすぐあと、私が家に着いた頃に講堂やヤヨイ会館が焼けてしまいました。

私は爆撃のあった前々日に、本社が置いてあった関西学院で開かれた軍需省の全国軍需工廠会議に所長についていったのです。
その時点では、全国12の航空機製作工場は全部空襲でやられてしまい、残るは姫路工場だけという状態でした。
その姫路工場も月産40〜45機ということになってはいますが、完成するには機関銃が足らん、脚がない、
あるいは無線の部品も揃わないといった状態で、不足部品が確か87点もありました。
ところが、この当時全国の工場で月産わずか27,8機ぐらいという情けない状態でしたから、鈴木中佐という監督官は、
空襲を受けていない姫路工場だけに期待をかけ「これから姫路工場は月産2倍にせよ」と強く命じました。
私達は顔を見合わせ、内心では「とても・・・」と思いましたが、その当時では軍の命令には「いや、できません」とは絶対いえないので、
「ハイ、承知いたしました。なんとかがんばります。」と答えて帰りかけると
「ちょっと待て」と呼び止められ、「ここまで来て手ぶらで帰ろうというような根性だから増産できんのじゃ。鳴尾工場へ寄って、
出来るだけ材料を持って帰れ」と叱られたんです。
しかし、その日はトラックも持ってきておらず、翌日鳴尾工場へ行き、組立中の飛行機や、爆撃でやられた飛行機の部品を手当たり次第にはずし、
代燃トラック3台に満載し終えたのは夜でした。
そして、警戒警報が出ている中をかえりましたが、途中、垂水までくると、空襲警報が鳴ったので、トラックの灯を消し、
真っ暗闇の中をノロノロ徐行しながら、姫路に着いたのは午前3時半頃でした。それから積荷を全部下ろしてしまうともう明け方でした。
みんなクタクタになって、事務所の机の上にゴロ寝したものの、よく考えると、今下ろした材料や部品のリストを作らないと受け渡しは出来ないので、
それからリストを作り、やっとのことで朝一番にそれを持って所長室へ持って行ったんです。
しかし、どうもその時の所長室の空気がおかしかったんです。

すると、その日が空襲だったんですか?

そうです、まさにその日だったんです。ですから、あの苦労した材料も部品もみんな吹っ飛んでしもうたんですわ。

あの晩、私は本社(鳴尾)へ連絡に行かされました。
通信も止まり、汽車も駄目なんで、真っ暗な国道を私一人自転車で舞子まで行き、そこから汽車に乗りましたが、帰りはまた舞子から自転車です。
何も食っていなかったから腹が痛いほどへり、倒れそうになる思いでしたが、死んだ人や戦地のことを思って頑張ったことを覚えとります。

私は鶉野工場にいて、姫路工場の空襲にはあわなかたのですが、もう随分前から姫路工場は必ずやられるという予想のもとに、
あの鶉野周辺には疎開工場の建設が、海軍の設営隊の応援で必死になって進められていました。
たのえば高室工場や、北条の稲荷山には大きなトンネルを掘って旋盤工場や、また飛行機を隠す為にフクド工場も建設中だったんです。
いよいよ本土決戦に備えるというわけですね。

ところで、私達が姫路工場の爆撃を知ったのは午後でした。
それまで、たしかお昼前にB29が鶉野付近の空を旋回したので、誰言うとなく姫路工場がやられたんじゃないかといううわさをしていました。
もちろん電話など通じないので、オトクニ飛行士が飛行機で偵察しに行くことになりましたが、B29がうろついている空へ単機で出かけることは
恐いといって渋りましたが、結局飛んで、帰ってきてからの報告で、私達はその爆撃を確認したわけです。
「もう姫路工場は何もなく吹き飛んで、ただ黒煙の立ち上る周りに無数の白い点が散らばっているのが見えた。」と言う。
この白い点々は、工場の屋根を葺いていた、石綿スレートの散乱したものであったことが後でわかったのでした。

あの日は早くから空襲を予想して、従業員の殆どは外へ避難していたので、犠牲者は最小限ですんだことだろうと、みんな考えていたんですが、
夕方近くになるにつれて「うちの主人が未だ帰らない」とか「私の兄は?」「妹は?」と、悲痛な顔で続々つめかけてきました。

だから工場内だけでなく、外でも大分やられたんですね。

従業員の屍体は一応、法華寺と正妙寺へ運んで弔い、後にまたトラックで阿保の川原に運んでガソリンをかけて火葬したのです。
阿保橋を少し北によった西側の広い川原に、屍体を並べていろいろ準備をしているさなかに、空襲警報が鳴ったのでみんなどこかに逃げてしまい、
私一人になりました。
警報解除になっても誰も帰ってきませんでしたが、私は踏みとどまって74の屍体をすっかり焼き終えました。
夜更けの川原に私一人、あの屍体の焼ける異臭と「ジュージュー」「プスプス」と異様な音、それに煙にむせ、炎に顔をほてらしながら、
私はただ夢中で焼きました。
そして、すっかり焼き終わった時には夜がすっかり明け、阿保橋には人影が動いていました。
私はもう精も魂も尽き果てて川原に倒れるように寝そべってフトこんなことを考えたりしました。
昨夜のあの光景をもし誰かがチラリとでも傍から見たとしたらどんなに感じたやろ・・・・・。
おそらく肝をつぶして逃げ出したにちがいない。そう思うと、おかしなことで、自分までゾオッとしてくるような気がしてきたことを覚えています。
あれからあの阿保橋を通る時には必ずあの場所の方へ目が向き、あの時のことを思い出して身が引きしまるような思いをするんです。

遺骨はそれぞれ遺族の方にお渡ししていったのですが、7、8体の分が残りました。
家が焼け、遠くへ移られたのかもしれませんが、7月の空襲時には、私はその残っていた、白布で包んだ遺骨の箱をみんな、
竹に通して担いで逃げたんです。

あの時、犠牲者への弔慰金はいくらぐらいやったんかいな。

たしか、一人千円から三千円までやったはずです。むろん、それポッキリで、他には何にもなかったんです。

ここらで、少し工場周辺の町の状態などをお話していただきましょうか。

それは全くお気の毒なことですが、工場内より周辺の家の方が何倍もひどかったようです。
私達はみな単身で、身軽に自分の安全を守ればよかったのですが、赤ん坊や老人を抱えた各家では、どうしようもなかったんでしょうね。

特に被害がひどかったんは、城東町から北東郷町にかけての一帯だったようです。
あの爆撃のちょっと前、強制疎開の方針が打ち出されましてね。工場周辺の家にロープをかけて引き倒し、大分倒したんです。
それで結果からいうと、それらの家族は助かったんですが、時間的な問題でまだ疎開するしないでもめていたところは大変な被害を受けたわけです。

ことに工場近くには、朝鮮人の家庭がたくさん集まっていたから、随分死者や重傷者もあり、ひどい被害だったと聞いています。

ですから、あの日の爆撃で、その目標とtなった工場の従業員1万人余りのうち、死者は74人というのに対して、
工場周辺の町の人がその4倍、二百数十人も犠牲になっとるんです。

工場の西門を出たところや、京口駅の近くでも大分やられたようでしたね。
爆撃の第一波で工場の西側のレンガ塀が外側に倒れたので、そこから多くの人が京口駅の線路を越えて西のほうへ逃げ出したんです。
ところが、県立女学校(現東光中学)の前や、あすこの川へも爆弾が落ちたんやから、たくさんの死傷者がでたんですね。

竹の門で、一家全員が家の防空壕に退避していて全員死亡したのもありました。

また、空から見ると、山陽皮革や日本フェルトの工場も、川西航空と一連の工場に見えたのか、この2社も爆撃され、死者もでました。

そうや、佐藤さんの息子や藤本印刷の息子さんもその時にやられたんです。

あの河合橋はひどかったですね。
爆撃がはじまったので防空壕の代わりに橋の下へ退避した人々は、橋の傍らの川へ爆弾が落ちたからたまらない、全員死亡でした。

いろいろと空襲の恐怖や悲惨な体験談をお聞かせいただき、あれから28年も経った今でも、なお生々しい思いをいたします。
時刻も大分遅くなりましたので、そろそろこの座談会を閉じさせていただこうと思いますが、
何かこの「川西空襲」に関連したことで、未だお話が残っていましたら、簡単にどうぞ・・・・・・。

さいぜんお話があった、工場の西側のレンガの塀が大部分外側へ倒れた為、そこを流れていた農業用水の溝が埋まってしまいました。
田植シーズンなのにそこから下は水が出ないので、城陽方面の百姓さんが困り果て、
方々の消防団などが出勤して埋まったレンガやコンクリの取り除き作業に当たったのでしたが、なかなかはかどらなかったんです。
そこで軍隊に頼み込んで一箇中隊ほど応援してもらったら、さすがにあっという間に片付き、水が流れるようになったんです。

これはご参考までに申し上げますが、私は当時青山部長の下で、おもに統計の仕事をしておりましたので、数字的なことは今も手元にあります。
「川西航空」の所在地は、姫路市天神町49番地(京口駅の東一帯)敷地は53,277坪で、在籍従業員は8月15日現在で10,280人。
うち社員は435人でした。
飛行機製作の最終段階では目標月産60機でしたが、部品の不足などでとてもそれは実現できなかったことを覚えています。
末長所長が大の統計好きで、いろいろな統計表を作っていましたが、それも20年5月までで、
もはやその時点では統計を作っても何の役にも」たたないし、どうせこの工場もやられてしまうんだからという空しい気持ちで、
統計の仕事はやめてしまったのでした。

いやどうも、長時間にわたり、いろいろ貴重なお話を承りまして、まことにありがとうございました。
厚くお礼申し上げます。

 

座談会の模様はこれで終わります。
次は具体的な空襲被害者の体験談を紹介します。

 

 

 



  

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送