体験談    

ズボンの端切れ

1  
昭和20年6月22日。
その日も正午近くになると警戒警報が鳴り渡った。
しかし、それは毎日繰返される日課のようになっていたので、皆な慣れてしまっていて、警報を聞くといつものように駆足で職場を離脱して待機する。
するといよいよ空襲警報が鳴り響くのだが、結局敵機は一機だけ高空を通過してしまったり、全然やってこなかったりして、やがて警報解除のサイレンが鳴る。そしてゾロゾロと工場へ戻ってきて昼食にかかるのである。
だから毎日これで作業は中断されてしまうのだが、実は
「もっと飛行機を!」
という軍の怒号にもかかわらず、肝心の資材が底をついてしまっていて、川西航空機姫路製作所1万人の労働力は各々の職場でただのろのろと時間を過ごしているだけという状態だった。

僕は入社してまだ一ヶ月にも達していなかった。
従って勤労課にポストを与えられていたが、仕事は殆どなく、毎日何となく過ごしていたのだが、数人の友達が出来ていた。
とりわけ福永弥造君(現在公認会計士)と親密になり、工場のことを何かと案内してもらっていた。
さて、その日課のようになっていた毎日の空襲警報に際して、事務職員は各課とも事務所の周辺に作ってある防空壕の中へ退避することになっていたが、その防空壕というのが全くちゃちなもので、石のツブテくらいを避けるには役立つが、近代火薬の爆弾などに耐えられる構造ではなかった。
軍部や政府の頭を疑う外ない時代錯誤物だったが、国民はそれを各自の職場や家庭に作らされて、その中へ生命を預けるのであった。
それでも幹部のいる本館前の防空壕だけは鉄筋コンクリート造りで、しかも地下相当深く作られていたから、
「あれだけはまず用をなすだろう」
と想像されたが、そこは幹部達と軍や役所からの訪問者以外は入られないことになっていた。
したがって僕は、毎日そのちゃちな壕へとびこんで、警報解除まで所在無く待っていたものだ。
勤労課で机を並べている、僕より大分年長の志水武之介氏がいつも壕の中へ一緒に入った。
志水氏は真面目誠実な人柄で冗談も言わず黙々と自分の仕事を果たすといった人物だったので壕の中で並んで座っていると話題に困る有様だった。


その日も警報を聞きつけていつものようにその壕へ入ろうと、志水氏とともに廊下へ出たところへ、福永君が駆けつけてきた。
「おい、今日は県女の生徒連れて逃げようや。」 と誘いに来たのである。
「県女係の黒金が神戸へ出張しとるんや。
大事な娘さんらの引率の責任を代行するわけやから褒めてくれるぞ。」 と笑いながら誘うのである。
僕は構外へ出る魅力にひかれて、急いで弁当箱と鞄を持って出かけようとしたが、
「弁当は帰ってから食うか」と独り言を言いながらまた机の上にそれを置いて駆け出した。
モンペ姿に戦闘帽の女子勤労学徒たちを引率して工場から街道へ駆け出し、市川沿いに一路北へ逃げた。
そして大日川原の竹薮の中へ辿りついて、ここで退避することにした。藪の中へ入ると、安心して女学生達はにぎやかにしゃべりはじめた。
僕らも雑草の上に腰を下ろして配給の煙草に火をつけて、のんびりと彼女達のおしゃべりを聞いていたのである。
かすかに爆音を聞いたように思ったが、いつものことだから意に止めなかった。もうしばらくすれば警報解除のサイレンが流れてくる筈であった。
突如、ドドド・・・・・という大轟音とともに、藪の中の大地がグラグラグラッと揺れ動いた。
全員ギョッとして棒立ちになった。

「アッ本物だ。爆弾だ!」と分かったとたん、顔から血の気が引くのを覚えた。
あわてて藪をすかして川西工場の方をうかがうと、煙がもうもうと立ち上り、その煙の中から真赤な炎がめらめらと天へ向かって噴き上がりはじめた。
すると、呆然として棒立ちになっていた女学生達が突如一斉にキャーという叫び声を発したと思うと、狂ったように藪の中を駆け回り泣き叫び始めた。
その甲高い悲鳴は脳天に突き刺さり、背筋に冷水を浴びたように僕は身震いした。
「さわぐな! じっとしとれ!」
と福永君が制止したが、彼女達は教本するばかりだった。
僕はいたたまれなくなって、藪の端まで逃げて外を眺めた。
街道は人影もなく静まり返っていた。
工場の方から血まみれの裸馬が一匹、たてがみを振り乱しながら全速力で駆けて来て、藪の前を駆け去っていった。


気が付くと、南の方からまた爆音が聞こえ始めた。
「あっ、又来たぞ! 静かにしろ!」
と叫んで、僕は狂乱する彼女たちの方へ駆け寄った。
ところが不思議なことに、狂奔していた彼女達はピタリと沈黙し、一斉に地面に伏せてそのまま微動だにしなくなったのである。
それは不気味なほど異様な転身だった。
僕も地面に伏した。すると、天地寂として声なく、ただ爆音だけが雨中を制圧して流れてくる。
それは身震いするほど空しい時間であった。
我慢できなくなって、僕はそっと頭を上げてみた。

すると、銀翼を陽に輝かせながらB29の数機編隊が悠々と、今しも手柄山上空あたりと想われるところに迫ってきていた。
「アレハ新シイ編隊ダロウカ、ソレトモサッキノ奴ラガ迂回シテ、フタタビヤッテキタノダロカ」と思って見つめていると、そいつらは一斉にすーっと
蜘蛛の糸のようなものを機体から吐き出した。
そしてその蜘蛛の糸はすぐ見えなくなった。
「あっ、あれは爆弾を投下したところだ。」
と気がついて、僕は顔を雑草に埋めた。

やがてザーッという、世にも不気味な轟音が湧き起こった。
その不気味さは例えようもなく、天地いっぱいに広がりとどろき、次第に大きくなってくる。
それは爆弾に加速度がついて空気を擦過する音である。
「アア、落チテクル、落チテクル、ドコヘ落チテクルノカ、僕ノ背中ヘ落チテクルノデナイカ!」
すると僕の背中の皮膚がむずがゆく、耐え難いような感覚に襲われ、わっと叫んで駆け出したい衝動にかられだした。
それを必死に我慢していると、ドドドド・・・・と大轟音とともに、地面がグラグラッと大地震のように揺れた。
「助カッタノダ!」と僕は感じた。
そして外を覗くと、今度も川西工場から新しい炎がパッと上がっていた。
ほっとして、福永に声をかけようとしたとたん、又もやキャーという脳天に突き刺さるような彼女達の狂乱の悲鳴に僕は立ちすくんだ。
叫喚しながら駆け回る彼女達のために竹薮がザワザワと揺れ動いている。
「やりきれんな。」と、福永も頬をひきつらせて座り込んだ。
「シカシナゼ彼女タチハ、助カッタトワカッテカラ泣キサケブノダロウ。逆デハナイカ。」と不思議に思ったが、次の瞬間には
「コレデ川西モ全滅ダナ。一体ドウナルノダロウ。」
「俺ノ弁当箱モ焼ケテシマッタナ。」
「家族タチハ、俺は、死ンダト思ウダロウナ。」
「志水サンハイキテイルダロウカ。」
などということが脈絡もなく頭の中を去来した。


又来たッ!と、今度は女学生の一人が金切り声で叫んだ。
爆音が聞こえてくる。
すると、又しても彼女達はぴたりと静止して、声一つ出さずその場に伏せて、身じろぎもしなくなった。
そして、天地寂として声なく、B29の爆音だけが時空を占領した。
そっと顔をあげてみると、手柄山上空辺りに迫っている編隊が、スーッと蜘蛛の糸を一斉に吐き出した。
それが消えてしばらくすると、又あのザーッという地獄の音が沸き起こった。
地に伏して耳を押さえていると、我が五体目掛けて爆弾が落ちてくるように思われて背中がむずがゆくなり、
ワット叫んで駆け出したい衝動にかられてきた。
それを必死に我慢していると、突然ドドドドという大轟音もろとも大地が揺れ動いた。
「ああ今度も助かったのだ」と起ち上がると、又しても女学生達が「キャー」と泣き叫び、狂気のように藪の中を駆け回りだした。
工場のほうを覗うと、いよいよ紅蓮の炎に包まれている
呆然としてそれを眺めていると、又しても南の方から爆音が聞こえ始めた。
「又来たぞ!」と怒鳴ると、彼女達はピタリと静止して地に伏し、死に絶えたように動かなくなり、天地寂として声なく、爆音だけが空しく響き渡り、
そっと顔あげてみると、手柄山上空辺りに迫った編隊が一斉に蜘蛛の糸を出し・・・・・・・・
一体これを何回繰返すのだろうか・・・?
僕の神経はおかしくなり、この奇怪な反覆は高速フィルムのようにのろのろといつまでも続くように思えてくるのだった。


敵機が目的を完全に果たして去り、警報解除のサイレンが無表情に鳴り響いて竹薮の中から這い出すと、女学生達はやっと生気を取り戻してしゃべり始めた。
「日本の戦闘機は一体何しとんやろか」
「これでほんまに戦争に勝てるんやろか?」
彼女達を家に帰して、僕らは工場へ急行した。
川西航空機製作所は跡形もなく、根こそぎ爆砕され尽くしていた。片隅に稲荷堂だけがぽつんと焼け残っているのが異様に目にしみた。
見渡す限り焼け原で、まだ炎と煙が立ち昇っていた。どこにどんな建物があったんか、見当もつかない。
そして、広い焼け原の向こうに忽然と出現した物のように民家が建ち並んで見えた。
爆撃はもっぱら川西一点に集中されていたのだ。

工場外へ逃げた大多数は助かっただろうが、構内の壕に入った者たちは、おそらく殆ど爆死したのではなかろうか。
例の鉄筋の壕へ「命が大事なのは誰も同じだ」と怒鳴って、制止する男を突き飛ばして飛び込んだという徴用画家の内海敏夫君に出会うと
「あの中でも大地震みたいに揺れて、壕の形がゆがんでしもうたもんな。子供だましの他の壕なんか全滅やろな」と言った。
僕は福永弥造君のおかげで、今日に限って構外へ退避した為に助かったということに不思議な「運命」を覚えて感動せずにおられなかった。
そして、せめて彼らの遺体を捜して弔ってやらねばと思った。
炎が漸く下火になったので、汗と埃と煤にまみれながら無残な焼跡を捜し歩いていると、ふと足の下に、誰とも見分けのつかぬ屍体が転がっている。
右半身が黒焦げて、左半身が生身の裸の死体や、上半身焼け焦げてしまっているが陰部が女性である屍や、両手を虚空に差し出したまま焼け死んでいる青年や・・・・・・・。そしてすでにハエが群がり始め、腐臭が漂い始めている。
それらを、福永君と近所の寺へ頼んで担架で運び込んだ。
「おい、この辺やぜ、勤労課のあったところは」と、福永君が足を止めた。
僕はギョッとして立ちすくんだ。
その辺に僕の死体が転がっているような錯覚に襲われた。
ふとそこに見知らぬ和解女性がしゃがんでいるのに気付いた。
「誰だろう」
彼女は、僕らの声に立ち上がった。
「どなたでしょうか?」と尋ねると
「はい、私、志水と申しますが・・・・・・・」
「ああ、志水さんの・・・・・・・・・」と言って、僕は絶句した。その後を聞くのが恐ろしかった。
すると彼女はボロボロの縞柄の小さな布切れを差し出した。
「これ・・・・父親のズボンの生地です・・・・・・・これだけしか・・・・・・見つかりません・・・・・・」と言って彼女は顔を覆った。
やがて彼女がぽつりぽつり話すのを聞くと、志水氏は宍粟の人で、父一人娘一人の家庭で、彼女は明石師範の学生である。
ラジオで姫路の川西爆撃のニュースを聞いて、父の事が心配になり、駆けつけたのだという。
志水氏は、いつものようにここの防空壕へ退避して、いつものように警報が解除になるのをまっていたにちがいない。
そして、この爆弾に見舞われて、五体ことごとく四散してしまって、かろうじてズボンの端切れ一片が残ったと言うのか。
僕は思わず自分のズボンを見た。
僕も当然志水氏と共に、この黒いズボンの端切れ一片だけを残して、それを誰かが見つけ出してくれる筈であったのだ。

 

教師の夫を奪った日の黒い空

田舎に身よりもなく疎開できなかった児童達は、頭巾の下から食べ足りなく、眠り足りない眼をしばたたかせながら登校し、
校門に据え置かれたルーズベルト米大統領のわら人形に先ず一撃を加えるのでした。
私達の所属しました五軒邸ではそんな事はありませんでしたが、各地の戦禍を知り、士気を失った人達は逃げるように荷物を運び、
畳を上げ、縁故を頼り疎開されました。残る床板や板塀まで燃料として持ち出されたと聞きました。
城東校の北の道を時々音を立てて飛行機が荷車で運ばれて行くのを見たものです。
川西航空機会社の製作何号かでしょう。

半ば覆われた尾翼が朝日を受けて、わずかに眩く、学徒動員の人達が心を込めて打った鋲が
「なんとかがんばってくるよ!」と小さい光となって語りかけてるようでした。
見送る人々の眼に、日増しに見える不安の色はどうすることも出来ない現状でした。
その頃男子の先生達には、科学新向上のためか、いや、児童達に勇敢な心をかきたたせるためにか、グライダーの講習がありました。
女子の先生達は、工場の整地に動員された男子職員の炊き出しに出かけました。
教育では、勿論体力増強が第一のスローガンであり、戦時下らしい教科課程で配慮され、研究会も盛んでありました。
運動場を100%生かした体操の授業!!

私の当時の勤務校の城東校での研究会の苦労が、運動場に林立した竹竿に敏捷によじ登る可憐な児童達の姿と共に、今もちらついてなりません。
さて、主人は終戦の年の4月の異動で、東国民学校から水上国民学校へ転任し、高等科1年の男子組を担任しました。
水上校ではその日(6月22日)警報の後、生徒を帰し、先生方は種種の作業につかれたらしく、校長さん達の一隊は騎兵隊へ
馬糞(まぐそ)取りに行かれたと聞きましたが、大脇(主人)には御国野校へ行くよう命じられたのでした。
たまたま主人の担任致しました生徒さんの上月、谷川の両名が3月に車(必勝車)を運んで行った実績ありというので、
その担任にこの命が下されたらしいのです。
増産を叫んで県知事から各国民学校へ配車された荷車は「必勝車」と呼ばれ重宝がられていたのでした。

その頃、御国野校に集結していたらしく、そしてその日任務が解除され車を早く取りに来るようにとの事だったのです。
日頃真面目な主人でしたし、学校にも未だ慣れぬこともあったでしょうし、この命令は主人にはきいと重くのしかかったのでしょう。
警報の出ないことを祈りながら、使命を帯びて一刻も早くと、御国野校へと向かった主人でした。
大日から土手伝いに東へ向かう途上、2名の生徒を「早く帰れ!」と命じたのは万一を案じたからでしょう。
ああ、その時自分も共にひき帰してくれればよかったものを、姫路の空襲がどこよりも遅かった事がついつい、心の隙を作っていたのでしょうか。
「先生一人で行ってくるから」と進んで行ったのでした。

突如B29の大襲来に出遭ってしまったのです。
堤防の下に掘られた多数の壕。
その壕を選ぶ暇もなく伏せた壕はあまりにも不完全だったのでしょう。
いいえ、その辺りに降り注いだ爆弾があまりにも大きく、あまりにも多く猛り狂ったからでしょう。
大脇(主人)は水上国民学校へ転任になり、疎開したようなもんだと安心していましたものを、運命と申しましょうか、
姫路で最も集中投下された真ん中に自ら入り込んで行ったのでした。
本当に、一瞬に地獄化した市川堤防下に果敢に散ってしまったのでした。
ああ、ひたむきに教育に身を捧げ、直なる性質を全うした主人は使命遂行の途上、こうして散ってしまったのです。

川原一面にドカンと口を開いた大穴と、崩れ散った壕の跡。またどこまでも飛び散った建物や人々の肉体の片が当日の空襲のすさまじさを物語り、
目も当てられぬ生き地獄図の現状でした。
当日、川西航空機会社、皮革、フェルトの各社に犠牲者が多く、また、五軒邸の東ノ町と藪川町もその余波を受けて悲惨だったのです。
私の家も東ノ町でしたので、当日保城へ避難していなければ、きっと生まれて1ヶ月の次男もろとも散っていたことでしょう。
やがて遺体は私の避難した保城の実家である中安家へ運び込まれ、誰もかもが仰天して息を飲みました。
私の母は狂乱寸前に嘆き、泣き崩れましたし、無言で見つめる父の眼にも、無念の涙が流れ、兄の言葉には優しさを感じました。
然し、百万の労わりの言葉もなんの力になりましょうか・・・。
私はただ、息を呑み、胸に入れた命令書を憎く思いました。

結局は、父なき4人の子供は私の腕に重くのしかかり、母としての闘志はいやがうえにも湧き上がらざるを得ませんでした。
人々の注目の眼差しが辛く、せつなかった日々。それは同じ運命に立つ者にしか知り得ぬ、悲しみの極みでした。
しかし、日を重ねるにつれ、どなた様を恨むこともあるまいと思うようになり、また、故人を恨むことも苛酷な事と悟りました。
そして「謙虚に、残された4人の子供を強く明るく育てよう。それが私のとるべき道なのだ」と心に強く誓ったのでした。
「ああ、大脇先生はもう駄目や駄目や」と川を泳いで帰ってくれた谷川、上月の両名。
主人の命令を聞分けて帰ってくれたので助かったのでした。
さみしい葬式の間にも、昨日の空襲の様子を点検するかのように、敵の艦載機はブンブンとt飛び交い、憎憎しくてなりませんでした。
私の小指を握って離さない5歳の長男の手が冷たく、いじらしくてたまりませんでした。
こんな時、参列の人々の中に谷川、上月の二人の生徒さんを見出して、「よく帰って下さったね」と、新しく涙がほとばしったものです。

 

爆風吹き荒れる壕から

空襲警報の発令によって無気味な静かさと極度の緊張に包まれていた姫路製作所の上空を「紫電改」が単機、超低空で両翼を烈しく打ち振りながら
数回慌しく旋回して鶉野飛行場へ飛び去った。それから数分後の午前10時頃、あの悲惨なB29による空襲が始まった。
私は、ふと鈍重な爆撃k特有の爆音に気付き、韓地下式の防空壕の入り口から晴れた空を見上げると、広畑方面の上空から高度を下げながら敵機の編隊が、私の頭上めがけて覆いかぶさるように刻々と迫って来ていた。
すでに先頭の編隊から爆弾が陸続と投下されていた。

それは米粒のような黒点となって、大空に拡散しながら神経を突き刺すような無気味な摩擦音を発して、製作所めがけて降り注いできた。
そして鼓膜を突き破る炸裂音とともに、大地を引き裂き腸を抉るような振動と、目の玉が飛び出るような爆風の渦を巻き起こし、
工場内の建物や防空壕を次々と破壊して吹き飛ばしていた。
私は硝煙と土煙で息詰まる防空壕の中で全身に崩れてくる土砂をかぶって、この苛烈な空襲を不安と恐怖に戦(おのの)きながら耐え忍んでいた。
第一波の敵機の攻撃によって、木造2階建ての本館事務所の屋根瓦は吹き飛び、窓ガラスは微塵に砕けて室内に散乱した。
又、京口駅の間の塀も、跡形もなく吹き飛び、爆風で寒々とした姿に変り果てた無人の駅が立ち上る土煙を通して望見された。

この敵機の爆撃によって、本館事務所の中庭の防空壕に待機していた安全班の桔梗君が至近弾の破片によって腹部に裂傷を受け、
下肢を防空壕の土砂にうずめて伏して即死し尊い犠牲者となった。
続いて約10分余り後に来襲した第2波の敵機の攻撃によって、煉瓦造りの堅固な倉庫や建物やあらゆる施設が破壊され、
焼夷弾によって黒煙に包まれながら炎上していた。
汽缶室の2本の巨大な煙突が中途より折れた醜い姿をさらしていた。
傷ついて残っていた本館事務所も2階に落下した焼夷弾によって出火し、やがて激しい火炎に包まれていった。
川西竜三社長をはじめ、我々防空要員の眼前で棟木が崩れ落ち、焼き尽きていった。

 

むざん、河合橋

空襲・・・の声で家から飛び出した。
国分寺町から下寺町へ皆ばらばらに逃げた。

私は下寺町のI邸の壕へ、近所の人と入った。他の者は右往左往、「橋の下に入れ!」と警防団の声が飛んでくる。
河合橋の下へ20名前後の者が入った。底へ米軍機が川西航空めざして爆弾を落とした。側杖だった。
橋から10bか10bも離れていない川の中に500キロ爆弾が落ちたのである。
ガスボンベに羽の付いた位の大きさの爆弾が京口交番の前に残っていたという。
爆風でばたばた倒れる。アチコチに死体、けが人が続出している。耳の鼓膜の破れた人もある。
警報解除になって6年生の末娘が真っ黒な顔で出てくる。

「お母さんは?」
私は橋の下に妻の手提げ袋を見つけた。ドキッと心臓の凍る思いがする。
やがて妻の死体と続いて長女の死体が見つかった。
妻は方を、長女は腰を抉り取られていた。
死体を引き上げようと必死になっていると、消防団のIガラス店のNさんが「上げてあげる」といってくれた。
中本透かし彫り店前の知り合いだった、坂田町の寺で二人の死体を洗ったり、包帯したりして処理をした。
その時は中本さんに大変な世話をかけた。
弔いだけはその寺で済ませ、阿保の川原へ荒木の棺に納めて、合同で焼いた。
眼を覆いたくなる情景が繰り広げられたのである。

これは私が復員してから聞いた被爆の日のあらましです。
前述の中で「私」となっているのは私の父です。
戦前から旧市内に住んでおられた方なら姫路藩の名家老、河合寸翁を祀る河合神社と、またその前にあって、外堀にかかる小さな橋、河合橋
(姫路橋の二つ上の橋)をご存知でしょう。
川西空爆の時、その橋の下で10余名の犠牲者が出ました。
たまたま、ゆかた祭りの日で、朝から楽しんでいた私の母と妹も、その中の一人だったのです。
選択が趣味のような家庭的な母は、1年の軍隊生活で、入院するような虚弱体だった私を殊の外心配していた。

白衣姿で日本原へ原隊復帰する私を姫新線へ見送りに来ました。
柵の外を豆腐町の踏切付近まで汽車と一緒に走ったのが最後の別れだった。

妹はぶっつけても大丈夫なような体の、色の白い女だった。
その犠牲の日は、勤めていた海軍衣料廠が休みだった。
二ヶ月足らずでどんでん返しの世の中になるとも知らないで死んだと思うと、哀れでなりません。
河合橋下犠牲者
   理髪店さん母子3人。
   煙草屋さんの誰か?
   しもた屋 Oさん父子二人。
   Yさん一家。
   洋服屋さん母子。
   建具屋母子二人(他にもあるかもしれない)
京口交番付近
   菓子屋さん一家。
   豆腐屋さん一家行方不明?という。
   河合、京口、五国と、橋が狙い打ちにされて被弾しているのである。

  総社の焼跡から白鷺城を望む。

  良く茂っていた樹木も無残な姿である。

 

 

 

 

 

 

川西救護班長の記

6月22日の午前中は、雲はあったがまずまずの晴天。警戒警報が発せられてから間もなく空襲警報。
川西製作所は全員退避という非常警報が出されたのは仕事が始まってからすぐだったから、午前10時頃ではなかったろうか。
但し、各部門の要員を残して・・・・・・という一項目は付加されている。
私の所属する医務課には神吉千代松氏という事務長がいた。衛生下士官上がりの相当ご年配で、非常に物知りの御仁。
他に今は田中タンスのご主人である田中君と、レントゲン技師の西尾君か同じく事務の八幡君か忘れたが私を入れて4名がその日の当番要員だった。
不安な面持ちで医務課玄関の大時計の下でスピーカーから流れるラジオのニュースに聞き入っていた。
カンの鋭い神吉氏が外に出て「敵艦載機がやってきますぜ。しかもタダの一機です」

ソレッと私達は裏口から出てみた。グラマンか友軍機か判然としないが、タダ一匹の虻のようにこちらをめがけて飛行してくる。
「敵機にしてはあまり低すぎるぜ。」
片足を防空壕の縁にかけて不審げに空を見つめていると、グッと機種を下げたその機は、妙な運動を始めた。
丁度、花畑を見つけたミツバチの偵察隊が巣に戻って仲間に餌の所在を知らせる為のダンスのような・・・・・。
翅(はね)をふるわせ、太陽に向かってある角度で巣の上をダンスしてまわるあの特有の運動のように、左右に翼をちぎれる程に振ってみせるのである。
その機体には鮮やかな「日の丸」があった。

「オイ、あれは友軍機やぜ、墜落するんやないやろか?」
あの翼ふりダンスが何の意味か分からぬうちに、その機が西南方 の空へ消えていくと、やがて播磨灘南方からB29の編隊が轟々と、あの身の毛もよだつ爆音をとどろかせてやってきた。
急行列車が遠くから来るようなゴーという唸り音は腹の底まで染み込む。
天地の間、万象その動きを止めた・・・・・。今まで順調に廻転していた映写機がピタリと止まってスクリーンの像が全く不動になったように。
そのくせ頭のてっぺんから脊椎の全長に亘って抉りこまれる音の振動。
初めは遠い潮騒の、やがて高鳴る雄波雌波、瞬時にして狂乱の怒涛となった。
  (正直、表現が良く分かりません。)

後で考えてみると、例えば高度3000bから爆弾を落下させたとしても、僅々(わずか)3秒のヒューッという落下音を聞くだけの筈だ。
それが無限に長く感じられた・・・・・・・・ということは、時間の長さは時計で測られるものではないのだ。
まことに盧生一炊(ろせいいっすい)の夢の間に、過去未来の無限の幻が見えつ浮かびつして私の脳細胞を揺さぶる。
過ぎた20年幾年は葉末の露と消え、この数秒は長い長い煉獄だった。

「天佑を保有し、万世一系の・・・・(読めませんでした)を踏める・・・・・・・・・・・・」で突入した太平洋戦争にもついに神風は吹かなかった。
しかし、最初の爆弾で上下にドカドカ揺れる急造板囲いの防空壕が直接の弾丸の先例を受けなかったという事は天佑ではないにしても幸運であった。
一瞬、土埃で真っ暗になった壕内で
「しまった! 出口を塞がれた」
と思った私は、次第にポーッと明るくなるにつれて「助かったかな?」と入口に走りよってみた。
入口に近い炊事場から炎が吹出している。
これ以上壕内に留まれば蒸し焼きになると思い、後の三名にすぐ出るように怒鳴った。

壕を出たところにすぐ大きなすり鉢状の大穴ができていた。出来立てほやほやの噴火口の感じだ。
見上げる空には、第二波のB29が迫っていて、鳥が糞を落とすように爆弾を投下し始めている。
「その弾痕へ飛び込め!」
夢中で神吉氏をすり鉢の中へ突き飛ばした。あとの二人はどちらへ逃げたか姿はなかった。
初弾の弾痕には後続の爆弾は落下しないものだという考えは、私のあさはかな経験だ。
しかし、それは狭差射撃・・・つまり砲の場合、まず敵の目標の前方次いで後方と、次第に距離を縮めて射撃する場合のことで、
大空から地上を狙う場合は、そう上手くはゆかぬかもしれない。しかしこの時は、それが私の信念だったのだろう。

幸いにして2回目は川西ではなく、日本フェルト、次いで山陽皮革と、これを一連の軍事工場と看做して目標にしたらしい。
私はホッと安堵の胸をなでて、爆撃の後から追随していくことにした。
医務課は川西構内の北西隅に位置していたので、その境界は高い煉瓦塀で外界と堺されていた。
しかしそれを次々と爆弾が破壊してくれたので、私達の逃げ道を作ってくれた結果となる。
爆弾はこわい。追いかけてくる弾丸には足がすくむ。しかし弾丸のほうが先行してくれるのだから気が楽だ。
ところが運悪く、第二弾で舞い上がった角材がすり鉢の底まで飛来して、落下していく爆弾を寝転んで見ていた神吉氏の右下腿に当った。

「痛うて痛うて、もう歩けません」と、往年の勇士も弱音を吐く。
「何言っちょるか!それしきの傷で!」と私は怒鳴った。
しかし、足をかかえてしゃがみこんだ神吉氏を見捨てるわけにはいかない。
私は肩を貸して市川の方角へ逃げ、途中から北の田圃の中へと畦を越し道を横切る。
雲がいつの間にか曇ってしまって、今にも雨になりそうな気配。
私の本職は救護班だ。しかし頼みの我が忠実なる神吉氏に負傷されて、我に従う一兵もなく、一具の担架があるでなし、
孤影悄然として荒野をさまようお粗末な救護班になってしまった。
そしていつの間にか、どこからか別の救護班がやって来て、死傷者を病院へ運んでいるらしいのである。

何のことだ、私の用はもうないではないか。ところがふと見ると向こうに一人倒れている。
近寄ってみると、もう微動だにしない死体だ。
私はまたとぼとぼと歩き出した。私を求めてくれる負傷者はいないのか。
一体負傷者の収容所はどこだろう。平素計画していた収容計画なんて何の役にもたちはしなかったのだ。
私は荒野の戦線をほんとに彷徨っているような錯覚にとらわれた。
まあ、腰でも下ろすか。そして一服喫うことにしよう。
雨がポツリ、ポツリと落ち始めた。

 

戦争末期の学校と川西空襲

1 広いたんぼの中で

戦争末期ごろ、私は姫路国民学校(市内の小学校高等科を集めた学校)に籍をおいていた。
しかし、あの当時の学校教育は現在とは全く正反対の変則的なもので、教室での学習などは殆ど度外視され、
生徒は市内の軍需工場に勤労動員されたり運動場を隅々まで耕して、イモや南京畑にすることが日課であった。
そんな中で私の仕事は、当時国民学校の生徒に毎日支給されていたコッペパンの、全市の学校の集計や、パン配給本部との連絡ということであった。
6月22日、あの日も私は教頭さんと二人だけで職員室にいたが、構内は静かで、運動場の畑を打つ鍬の音や、
肥料にする馬糞拾いに出ていた女学生が、ぬくぬくの馬糞を持ち帰って、得意そうに話す声などが聞こえていた午前10時頃、
警戒警報のサイレンが鳴った。

すると、忽ち構内はざわめき、学級別に生徒を集め、それぞれ急いで帰宅させたのだった。
それから3、40分も経った頃だったろうか、急に空襲警報のサイレンがうなりだした。
職員室へ戻っていた先生たちは一斉に立ち上がり、校舎脇の職員待避壕に飛び込んだ。
私もその後についていたが、壕の入口近くで空を見まわしていると、
突如すごい爆音と共に南校舎の屋根の向こう側から大きな敵機が飛び出して東へ旋回した。
私は反射的に壕に飛び込もうとしたが、すでに満員で、丁度私の体が壕の戸になっているような状態であった。
そのとき、何とも得たいの知れぬ無気味な音が聞こえたかと思うと、ドドドーン、地響きがして強いショックを感じた。

すると、壕の奥の方でアッという叫び声が上がった。
今の振動で壕が大きく揺れ、大量の土が皆の頭の上に落ちたのだった。
私はそっと盗み見するように外を見たら、運動場のイモ畑の彼方(東方)に、真っ黒な入道雲のような煙がむくむく立ち上っている。
私はとっさに壕を飛び出して、まっしぐらに校門の前面に広がるたんぼへ走った。
そして、あの無気味な落下音を聞くたびに、どこにでも身を伏せた。

見渡す限りの広いたんぼには、麦を刈り終わって切り株だけが無数に並び、猫の子一匹いなかったが、私はあぜ道に仰向けに寝て空を見上げた。
何とも広く、青い空だった。

敵機B29はその上空をさながら定期便のように一定の間をおき、南より5、6機ずつ飛来して、ちょうど男山水源地の上空の辺りで東に進路をとりながら
その機体からパラパラっと。約10個ほどの黒い粒を吐き出す。
と、見る間にそれが数条の黒い斜線になって落下するが、それは一瞬に消えて、あの落下音が聞こえ始め、
次に大地を揺るがす爆発音と爆風ショックが起こるのである。
この極めて正確な順序を何回繰返したことだろうか・・・。
そして、その間どれほどの時間が経過したのだろうか。広いたんぼの中で私一人、すべてを忘却してただ一途にそれを見守っていた。
フト気が付くと、もはや敵機は現れなくなり、サイレンが空襲解除を知らせたので、私は起き上がって職員室へ引き返した。
予想通り、あれは「川西航空」への集中爆撃だった。

2 血の縞の流れー(恨みの河合橋)

ところが、「川西」周辺の町には多くの生徒の家があり、その周辺も大被害を受けているということから、全職員はその方面へ出動して、
生徒の安否を調査することになった。
各自が担当の町と生徒名をそれぞれ分担して、私も三人の先生と一緒に出かけたのであるが、大黒町辺りまで来ると混雑がひどく、
とても自転車を持っていては動きが取れないので、知人宅に預けている間に私一人はぐれてしまった。
身軽になったので、人ごみに分け入って東へ向かったが、国分寺町に入るとどうにも動けない混み合いである。
聞けば、県立女学校の門前に大型爆弾が落ちて大穴が開き、通行止めだという。

そこで、小路を南に抜けて河合橋の通りに出たが、どうしたことか道いっぱいに泥が盛り上がっていて、
人々は道の両端をそれぞれ一列になって、よちよち進んでいる。
私もその列に加わったが、橋の方へ進むにつれ泥の量が次第に増えていくので、
多分これは川に爆弾が落ちて川底の泥を吹き飛ばしたのに違いないと思った。
しかし、それにしてもこんなに凄いものだろうか・・・などと考えながら橋まで来たが、橋の上は20pほどの厚みの泥でとても通れない。
そこで、前を行く人に見習うと、この河合橋の北側に沿って直径20pほどの鉄のガス管が通っているので、
その上を踏み、手で橋の欄干を握り伝いながら渡るのである。

私もその列に続いて2、3歩ガス管の上を進んだ時である。
前を行く中年の婦人が下を向いて異様な声を発したので私もつられて下のほうを見たのであるが、そこには全く目を疑うような悲惨な地獄絵があった。
底の浅いせせらぎの中に、防空頭巾にモンペ姿の女の人や、鉄カブトと巻き脚絆をつけた男の屍体が10近くも折り重なって横たわっており、
母親らしい人の腕の下に、赤い防空頭巾の中から10才ぐらいの女の子の白い顔が覗いている。
そして、どの屍体からも真赤な血が吹き出て水に流れ、それが太く、細く、濃く、淡く、さまざまな幾十条の血の縞になって長く長く川下に流れていく。
私はめまいを感じながらガス管の上に立ちすくんでいると、後続の人から促され、背中を突かれて前へ進んだが、
橋の東端でも又それと同じ有様を見た。

ここでは、3、4人の男女が川に入り、びしょ濡れになって屍体の顔を一人一人確かめてまわる者、泣きながら水の中の屍体に取りすがり、
名前を呼び続ける者、私はその声と有様を今も忘れることができない。
川端で、興奮気味の老人が人々に話しているのを聞くと、橋の下は壕の中より安全と考えた人たちが橋の両端の下に待機していたら、
不運にも川の中へ、しかも、20bほどの近くへ大型爆弾が落ちた為、その強烈な爆風で橋の下の石垣に全員がぶちつけられたのだという。
さて、私は橋を渡って京口の踏切まで来たが、その辺一体のすさまじい様相と混乱の中で、途方に暮れてしまった。

無残に破壊された町は、まだ燃えていて、煙が立ちこめ、その中から血みどろの顔や、腕をもぎとられたり、足のない人や、
腹部がつぶれて血を吹出している人や、さてはもはや息の絶えた屍体などを次々に雨戸や古トタンに乗せて運び出してくる。
さらに、それをどこに運ぶのかを大声で怒鳴りあっている救援の人々。
また、狂気のように家族の名前を呼んで走る人など・・・私は煙と熱に咽ぶながら想像を遥かに絶するこの惨状に心を奪われ、
この状態のさなかで顔も知らない生徒を探すなどということは、とても望めることではないと断念しなければならなかったのである。

  (ありし日の)河合橋だそうです。

  この下で、惨事があったのです。

  現在の場所でいうとどの辺になるのでしょうか・・・

  できれば現在の写真を入れてみようと思っています。

 

 

 

 

 

学徒の偵察日誌

「空襲がなかったら今夜はゆかた祭りやのに・・・・」
母の声をあとに、その日も動員先の工場へ。
ちょうど朝礼の始まる頃空襲警報が出て、学徒防空補助員であった私は任務の為城西防空指揮所へ行った。
かなりの時間が経った頃、南の空からB29の大編隊がいつもの高度よりも大変低い姿勢で、しかも弾倉を開いているのがよく分かる。
「危ない、退避」 の声と共に壕へ。
ザーという爆弾の降下音。続いて大地をゆるがす大音響。
外へ出てみると、お城の向こうに大きな黒煙がむくむく上がっている。またB29の大編隊、大爆撃である。

第3波目あたりの後、ちょとした休みがあった。
その時所長のW巡査部長が「川西に動員の学徒、偵察に行け」と命令した。
警防団員と二人で爆撃現場に行くことになり駆け出したが、またまた大手門辺りで敵機来襲。
もう大丈夫と思われる頃現場に到着したが、京口の駅前から先はめちゃくちゃに破壊され、すさまじい限りである。
人々は恐怖のために小さくなって逃げ回り、口も聞けない人もある。
殆どの人が傷を負い厳しい意表上だった。煙と熱気、たちこめた粉塵の中から血まみれの死者や負傷者が担架に乗せられて運び出されて行く。
腕が吹っ飛び、ある者は片方の足しかない。

あんな死に方はしたくないなぁと思わず考えている時「コラッ学徒、こっちへ来い」と呼ばれてある医院の中へ連れ込まれた。
そこにも足の踏み場もないほどの負傷者がひしめいていた。顔をそむけたい気分だった。
医者もいないし、一体何をしろと言うのだろう。
すごい傷の負傷者を運び入れただけのことである。
とりあえず住所と名前と傷の場所を控えろと命令されたが、そんなことを聞くのが気の毒なくらいの傷ばかりである。
ほどなく老いた医者がやってきたが、おろおろしているばかりで全く役に立たない。
苦痛のためにしきりに水を欲しがるが医者は許さない。

しかし、助かりそうもない負傷者もあるので、ついに医者の命で飲ませてやったが、「うまい!!」の一言を残したまま息を引き取る者もあった。
まさにこの世の生き地獄である。
あまりのむごたらしさと、指揮所への報告のため早々にそこを退散し、川西工場が全滅であることを報告、
同僚の姿を求めて工場の周りをなんべんもぐるぐる廻ったが、途中、神社の境内での光景を今も忘れることが出来ない。
草むらに転がされた数人の重傷者が苦痛のあまり転げまわり
「誰か殺してくれ!!」
「早く楽にしてくれ!!」
と叫んでいた。

  北条にあった海軍衣料廠の焼跡

 

 

 

 

 

 

長い夏の一日

その日は朝から晴れて、すでに麦の取り入れも終わり、田植えも大半は済んでいた。
当時、私の家は川西航空機製作所と市川の土手の中間に位置し、私は航空機西門の傍の城東国民学校へ通っていた。
5年生だった私が登校すると、間もなく警戒警報が出て帰宅を命ぜられ町別に整列。
航空機と日本フェルトに挟まれた道を防空頭巾をかむり家に急いだ。
当時、家には母と二人きりで、父や3人の兄はそれぞれ軍需工場、戦地、少年航空隊、学徒動員と、
その殆どが姫路に存在することなく本土決戦に備えていた。
大半が疎開で寂れた町であった。

帰宅後間もなく空襲警報、そして間を置かず友軍機が空を舞った。
何を意味するのか今も分からない。5分と経たぬ間にB29の編隊が南の空に見えた。
それまでもB29は再三見ているが、(飛行高度は)高度1万b位で、それに編隊で来ることはなかった。
神戸・明石とやられ、姫路も近いと噂されていただけに、その日のB29を見た瞬間、「今日は落とす」と実感した。
高度は今で思えば3000bか4000b位と思う。異様にどす黒くて模型飛行機位の大きさに見えた。
編隊は7機から9機くらいだったと思う。
飾磨かあるいはそれより少し南へ来た時、「ザーッ」というすごい夕立の音のようであった。
溝に伏せた顔を上げると黒煙と火焔の物凄さ。300bくらいより離れていなかった。
当時、子供心に「こんな事がこの世にあっていいのか」とつぶやいたことをはっきり記憶している。
つづいてその攻撃は山陽皮革と日本フェルトに的確に落とされた。

数機の編隊で数回にわたって攻撃を加えられる間、私は東へ東へと市川の河原の航空機の壕へ逃げ込んだ。
17、18歳の女子挺身隊員が壕の中で「ワアーワアー」泣いていた。
故郷(クニ)を離れて1億本土決戦を前に、尽くしていた彼女らの姿が今も目の前に浮かぶ。
苦しみ悔しさと、愛国心で泣く壕の中が彼女の青春だったのだろうか・・・・・・・。
昼過ぎには爆撃も終わり、一人家に帰り、散りぢりに逃げまわった肉親がくずれかかった家で再度顔を見合わせた時は、
生き延びられたことを泣いて喜んだ。
夜になっても軍需工場は赤々と燃え、軍隊が見張りをしていた。
長い長い一日であった。

翌日、爆弾の穴跡に友人の衣類があった。
胸に着けた国民学校(の名札)、氏名、年齢、血液型も直撃を受け、吹っ飛んでしまえば何の効果もなかった。
当時を思えば胸が痛むのは私だけではないだろう。
数日後、学校も破壊された。
教材も焼けてしまい、近所の寺に学んだのも数ヶ月で終戦を迎えた。
今、ベトナムの戦争を思う時、理由は何であれ、あの悲惨な事が繰返されている。
もう一度ここで、全人類が平和という2文字を真剣に考える必要があるのではなかろうか・・・・・。

 

妹の手を引いて田んぼを走る

第二次世界大戦(大東亜戦争)の宣戦布告を耳にしたのは小学校5年生の12月8日。
時刻は定かではないが、休憩時間は校庭の片隅で友人とジャングルジムの遊びに興じていた。
その時、校内放送でこれを知ったのである。
その発表を聞いた途端に体中に何かが駆け廻る緊張感と感激は今も忘れることはない。
その日の校長先生の訓話の中に、時の内閣総理大臣・東条英機を褒め称える言葉の一節に「努力即権威」があった。
何故かこの言葉だけが不思議に頭の中に残っている。
後に、戦争裁判で絞首刑、十三階段の断頭台の露と消えた末路と思い合わせると何かを考えさせられる。

4人の子供の末娘が5年生。
その年になっているが、時代背景の異なりの大きさをつくづく感じ、鮮明におぼろげに、子供から思春期への課程を、
戦争の苦しさに過ごした遠い日の記憶が私の頭の中で明滅する。
こうして戦時カラーは日々深刻さを増し、あまつさえ、父と兄を軍人に持つ典型的なファシズムの仲に育った私であるが、
昭和18年に入学した私は、憧れていた女学校生活などどこにも見当たらず、そこにあるのは以前にも増して厳しい戦争教育のみが待ち受けていた。
学校のお手洗いの中でその虚しさを一人じっとかみしめなければならなかった。

「理屈を云うな!」
この一言で片付ける、言い訳無用論者の学年主任長のS先生から受けた精神的、否、暴力(出席簿で頭を殴られる)被害は
我々同期生にとって「実に甚大なり」と言っても過言ではない。
翌年になって、2年生の12月にはもう学徒動員として川西航空機で働く身になった。
いくばくかの訓練期間を終えて、私達が配属されたのは第三組立工場であった。
全く火の気のない大きな工場の中で最初に私達に与えられた仕事は、直径1pくらいのボルトを短く切ってその切り口を丸くして角を取る作業であった。
手袋を3枚も重ね、時計の針ばかりをながめて、時の経つのを願い、金鋸、鑢(ヤスリ)等を手にしていた。
鋸の歯など、ちびて切れにくくなってもなかなか換えてもらえず、初めは1枚1枚持って交換に行っていたが、慣れれば要領よくなって、
まとめてもらってくる事を覚え、ヤスリも目の磨り減る迄使用するのは容易ではない。
力が入って息が切れるばかり。そこで、コンクリートの上へわざと落としていた。
鋳物であるため簡単に割れるので、そのようにしていた。

当時はこんな些細なことがせめてもの抵抗であり、楽しみであった。
その後学校が工場となり、講堂には機械設備が備えられ、その講堂で2期上の33期生の人たちと一緒になって飛行機の翼を組み立てていた。
電気ドリルを使って穴を開け、エアーで鋲をかしめ、その手が外れて血豆を作る事もしばしばあった。
検査を受けて、それが通らなければ、又初めからやり直し。
今にして思えば、私達の作った物など果たして役に立ったのか?と疑問です。
と言うよりは役に立っていなかったということになるのだろうが、その時は少しでも早く正確にと一生懸命であった。
そして、校庭の周りは防空壕が掘りめぐらされ、校庭は芋畑と化し、中庭にもカボチャがいっぱいぶら下がっていた。

その間にも戦争は悪化の一途を辿りつつあった。
戦況はますます振りとなり、種々の訓練が行われた。
末期には市川の河原で敵が上陸してきた時のことを想定し、大きな頭大もある石を手にして、手榴弾を投げる練習までさせられた。
私達の胸は悲壮感が締め付け、毎朝朝礼で歌う軍歌も戦争初期の、景気のよい軽やかなリズムから重苦しい物へと変っていった。
あれはその年の何月頃であったろうか?
2月であったか、それとも4月であったか?
海軍少将(たぶんそうであった)が、学校工場を見学に来られ、その時の挨拶の中に
「我々の亡くなられた先輩があの世から「よもや日本の歴史に汚点をつけはしないだろうなとささやかれる声を耳にする」
という意味のことを、また、何とも言えない面持ちで話されたのを覚えている。

今考えれば、その時すでに敗戦の色彩濃くなっていたのか、あるいは、はっきり分かっていたのかもしれない。
本土空襲が連日連夜行われ、昭和20年6月22日、とうとう我が郷土、姫路にもその魔の手が伸ばされたのである。
その日も何時ものように登校していたが、当時警戒警報が出るとすぐ下校するようになっていた。
だが、警報が解除になれば、(学校警備の人を除いて)又直ぐに学校に引き返さなければならなかったのである。

だから私達もそうであったが、近くに親類縁者があればそこに身を置いて、なるべく早く学校へ戻る為の便宜をはかっていた。
私は何時も市川橋の東詰の村、一本松の叔母の家へ寄る事に決めていた。
そのためこの日も、姫路大爆撃のある事などつゆ知らぬ私達はいつものように叔母の家の中で2期下の妹と二人で遊んでいたのです。
が、空襲警報を告げるサイレンの音に、家の前の道路をへだてた市川の河原に掘ってある防空壕の中に飛び込んだのです。

一度上空(かなり低空飛行であった)を一機が旋回した。
まさかそれが敵機であるとは知らなかったが、この一機が先頭の指揮、誘導機であったのでしょう。
間もなく、編隊飛行の爆音と共に、ザアー・ザアーという爆弾が大気を切り裂いて落ちてくるものすごい音を耳にした。
次にドカーン、ドカン、ドカンと炸裂の音、人生の恐怖の経験の中で最大のものであった。
壕から首を出した私の眼の前に、かつて見たことも無い光景が展開されていた。
もう恐ろしさに物も言えず、腰の萎える思いだった。
アア・・ ここでは駄目だ!! 危ない!!
と一瞬そう思った私は、叔母達の止める声を後にして、妹の手をしっかり握って夢中で壕を飛び出していた。

 

  焼け残った船場本徳寺の本堂です。               右は現在の船場本徳寺です。

  このお寺は本堂と門が残ったが、その他の建物は焼失した。  写真で見ると分かりませんが、かなり荒れ果てています。

深志野の我家を目指して、2.5キロの道程をやっとのことで歩き終えて家にたどり着いたときにはもう爆撃は終わっていた。
途中、道路を通るとだいぶん遠回りになるため、ちょうど麦刈りの済んだたんぼの畝を、横に飛び飛び、
その間、何べんか溝の中、たんぼの中に爆弾が落ちるたびに、訓練で教えられたとおり耳と目を手で覆って、口を開いて伏せた。

家にたどり着いた時には、頭から水をザブーンとかぶったほど汗が流れていた。
家の者達は、有りったけのお蒲団を出してかぶっていたらしいが、これも又(私と)同様に、汗だくの態であったのです
今でこそ笑い話で済ませられるが、その恐ろしさを筆で表現するのは難しい。

この日、大空襲で川西航空機は全壊し、多数の方が亡くなられた。
私達が配属されていた第3組立工場の工場長もその一人であった。
また女学校でただ一人の犠牲者が私と同じクラス・三年光組の伊藤さんであった。
学校のま近くの、神屋町の叔母さんの家の防空壕の中で、傷ましくも14歳の生涯を戦争の「いけにえ」として閉じてしまわれたのです。
その後そこを通ってみたら、直撃弾ではなかったが、壕のま近くに大きな穴が開き、その爆風による悲劇であった。

当時この方のお父さんが、確か城北小学校の校長先生をしておられた。
従姉妹が先生をしていて、このお父さんと職場が一緒だったため、お悔やみに行った。
その夜の彼女の日誌にはこう記してあったとか・・・・・
「警報が解除になって、学校へ戻り工具箱のふたを開ける時、何時も自分が1番であり、そして仕事に付くのも自分が1番であることがとても嬉しい」
学校は一応爆撃からは免れたものの、燃え上がる民家の火が東の道路や川を超えて飛び移り、
廊下につけられた防火シャッターなどは何の役にも立たずに、木造校舎の天井を火がなめ走り、あれよあれよと言う間に全焼してしまったとか・・・・。

二日後に登校した私達の目の前には、爆風で傾き倒れそうになっている校門横の弥生会館と養正堂、それと校舎の階段だけであった。
真っ黒の黒土と化した焼跡には、7月の太陽がなぜか無気味に容赦なく照りつけ、脱力感と相まって、息をすることさえ苦しかった。
川西航空機、またその近くの民家、道路であった所には爆撃によって出来た大きな穴があった。
直径、深さはどれくらいであったろうか、またその数も幾十、幾百・・・そのすさまじさにただ茫然とするのみであった。
それから、まだその恐怖も覚めやらぬ7月3日の夜に焼夷爆弾の攻撃があった。

この時は、幸いにも姉と但馬の叔母さんの家に行っていた為、この遭遇を免れたが、ラジオのニュースでこの事を知った。
播但線が不通になり、一日おいて香呂まで開通となったので香呂駅で下車。
全く知らない道を、空襲警報に怯えながら行きつ戻りつ、何時間もかかってやっと村が見えてきたときの嬉しさは例えようもなかった。
その上、連日連夜、B29による他都市の爆撃と、グラマンによる機銃掃射。
夜でもモンペ姿のまま休み、空襲警報が出れば300bほど離れた裏山に掘った防空壕に逃げ込んだ。
月明かりの夜など、逃げる道すがら、B29の編隊機が月影にくっきり照らし出されていた。

こんな事もあった。
壕の中は湿っぽくて、また大勢が横になって休むなどとても不可能だった。
その壕の前に孟宗竹の藪があって、竹から竹へと蚊帳を張りゴザ等を敷いて休んでいたことがあったが、
なんと、翌朝その中に大きな真っ黒な山蛇がとぐろを巻いていた。
「知らぬが仏」とはこのことで、ぞっと背筋が寒くなる思いであった。
また、こんな面白い話もある。
今は二児の小学生の父親になっている弟がまだ3歳頃だったと思うが、ある日私が
「秀臣ちゃん、あんた大きくなったら何になるん?」  「僕は大きくなったら大将になるんや」
当然この答えが返ってくることを信じていた私に、なんとその答えは
「ねえちゃん、誰にも言うたらあかんで、僕、大きくなったら警戒警報になるんや」
その妙な返事に私は苦笑いしてしまった。

私達姉弟の間で後々まで笑い種になっている事のひとつである。
この幼児がどのような気持ちでこんなことを言ったのか、この笑い話にならぬ会話からも時代の背景が覗えるのではないだろうか。
敗戦後は、焼跡の階段室に風が吹きぬけるコンクリートの上にお雛様のように並んで、下から先生が講義をしたり、
また、あちこち他校を借りての分散、あるいは二部授業であった。
その登下校の途中、時を告げるサイレンの音に、一瞬、条件反射的に胸をビクッとさせる私達であった。
戦争の合図を告げる鐘の音は、平和を告げる鐘に変ったのである。
戦争から戦争への過程の中に成長してきた私達も、その時は貧乏の底にありながらも将来に夢を持ち、
希望に胸をふるわせながら友達と語り、のどかさをしみじみ味わいながら、ゆっくりと歩くことが出来たのです。

 

学園被爆の記

「昭和20年6月22日、戦災により作法室及び校地の西北隅、元寄宿舎建物を残して校舎全焼する」
と、県立姫路東高等女学校の校史に、今ひっそりと載っているこの一片の記事こそ、元県立姫路高等女学校が太平洋戦争で被爆焼失した、
あの傷ましい出来事を物語っているものであり、当時の職員・生徒・父兄・市民達にとって永久に忘れることの出来ない悲しい歴史的事実なのである。
かつては「県姫」「県女」の名で、親しく・懐かしく・且つ誇らかに呼ばれた女学校中の名門、
県立姫路高等女学校に私が転勤してきたのは昭和13年の4月であった。

当時、姫路市国府寺町に位置し、元県立姫路中学校の校地・校舎を引き継いで使用していた同校では、
南の本館を除いて全面的に増改築工事が行われており、その後それらは次々と完成し、校舎は勿論、内部設備や校庭なども整備充実されて、
名実共に代表的女学校としてその存在は光っていた。
ところが、不幸にも日本はあの忌まわしい戦争へと突入し、戦局の推移はついに学園にも「学徒動員」という事態を引き起こし、
工場などへの「勤労動員」から始まり、さらには「学園の工場化」「戦場への学徒出陣」にまでエスカレートしていった。
そして迎えた昭和20年6月22日。

この日の朝、すでにある程度工場化していた学校へいつものように生徒達は登校してきたが、当地区への空襲が必至であるとの情報の為、
全員に帰宅を命じ、その後職員は残留して学校防衛に当たっていた。
そして、残念ながら予報は的中し、午前10時頃(?)敵機は編隊で南西飾磨上空方面から来襲してきた。
このため学校も被爆の危険にさらされたので、職員は機を見て早速退避行動に移り、誰からともなく運動場東南隅にあった防空壕に飛び込んだ。
しかし、爆撃目標が学校東方の川西航空機工場にあることが確実視され、ものすごい波状攻撃の爆撃音を耳にすると
「ここでは危険だ」と感じられたので、空襲の隙間を見て、急いで北西隅の防空壕へと移った。
が、攻撃はなおも続けられており、壕の入口にいた私の側まで爆弾の破片と思われる鉄片が飛び込んできた。

こうして、しばしは生きた心地もしなかったが、時々は壕から顔を出し、やっと敵機の去った気配に、
壕からあるいは他の待避所から出てきた一同が真っ先に目を注いだのは校舎のたたずまいであった。
ところが、目に映った校舎はありがたいことに、こちらからは被爆しているようには見えない。
「やれやれ、よかった」
と、走るようにして運動場を横切り、通路を通って本館の南、すなわち同窓会館の近くまで来た時に飛び込んできた眼前の光景は
目も当てられないむごい爆撃の爪跡であった。
玄関や校門付近の校地をえぐった大小いくつかの爆弾の穴。
めちゃめちゃに壊され、窓枠もなにも吹っ飛んだ職員室や同窓会館、倒れたり折れたりして散乱している庭木。
まったく筆舌に尽くしがたい惨状である。

これを見た一同はしばし言葉もなかったが、やがてこみ上げてくる憤りは、「なんてひどいことを・・・・・・・」という短いことばとなって口から漏れた。
このように、現場はまったく手のつけられない無残な有様だが、事務の方を中心に、誰からともなく壊れた建物の中をくぐり、
重要書類の搬出作業が開始された。
一方、元の姫路警察署の地下室にあった防空本部(?)への報告に、私が自転車で駆けつけたりなどもした。
ところが、こうしている間にいつしか午後になっていた。
そして、校舎の東南隅辺りから上がった火の手は次第に広がって瞬く間に北方校舎にまで移り、
学校備え付けのポンプやバケツリレーによる職員必死の防火作業も虚しく、せっかく助かっていた校舎も次々と焼け落ちてしまう始末だった。
こうして、一同泣くに泣けない一種の虚脱状態にも似た気持ちでくすぶる焼跡を呆然と眺めていた。
やがて、気をとり直して周囲の状況を覗ってみると、今まで構内のことばかり気になって気付かなかったが、
東方の川西航空機工場に至る一帯の変り果てた情景、そして、学校周辺の道路を運ばれる爆死者や負傷者の無残な姿(はなんとも無残であった)。
また、次々と目に映り、耳に入ってくる傷ましい事実は一々枚挙に暇がない有様であった。

ところで、この間幸いにも職員には事故が無かったが、全員無事に帰宅しているものと思っていた生徒の一人が、
帰宅途中に友人宅に立ち寄り、その一家の待避所で被爆して死亡すると言う意外な出来事が起こっていた。
被爆による罪の無いこの若い生命の犠牲・・・こんな傷ましいことがまたとあろうか。
今更のごとく、戦争の残酷さがひしひしと身近に感じられた。
ああ、それにしてもあれから早28年。

被爆焼失した校舎の跡には、今、姫路市立東光中学の校舎が建ち、平和を象徴するかのように少年少女たちの明るい笑い声が聞こえ、
運動場では走りまわり、踊り跳ねる元気な姿が見受けられる。
これら、戦争を知らない少年少女たちを眺めるにつけ、健やかにそして幸せにと前途の平安を願う。
そして今日、私達は何をなすべきか?
この時、「ひょいと気付いてみると、平和な日常が崩れているといった事にならない為にも、
極限状態で得た認識の日常化と、新たな活用を図らねばならないと考える」という、
高橋和己氏の一文(1968年発表の「極限と日常」から)の持つ意味が、私にはしみじみと考えさせられるのである。



一家三人を失った日

分隊長から1枚の紙切れを無言で手渡された。
最初に目に映ったのは「シス」という電文の文字であった。
不審に思い、最初から読み直した。
「コウチカイグンコウクウタイ、ダイ12ブンタイ3パン、ヒライヨシヒトチチ、ハハ、オトウトシス」とあった。
何か信じられない悲憤が脳裏をかすめたが、しばらくして「来るべきものが来た」と軍人精神に血をたぎらせて、やっと平静の一瞬が来た。
無言で分隊長の顔を見ると、悲痛な部下思いの面相の奥に絵美をたたえて
「妹達の為帰ってやれ」
休暇をやるということである。

私としては、軍務が最も多忙な最中であり、その時の気持ちとして、おめおめ帰郷など思っても叶わぬ心境だった。
再三辞退したが聞き入れられず、6月末頃から7月にかけて5日間ほどの休暇をもらって、残った妹達の避難先「上郡」へ帰ることになった。
その時私は、四国高知市外の明見村におり、高知海軍航空隊明見分遣隊の一下士官であった。
私が航空隊に入ったのは鷺城中学(現在の姫路高校)5年の時だった。
昭和18年12月1日、海軍甲種飛行予科練習生として松山海軍航空隊へ入隊した。
それまでは同中学4年から3組の上級学校準備組として勉学に励んでいたが、友人とのふとした精神環境から、
飛行兵としてお国のためには勿論、
青春の何物かを得たく、親の反対を押し切って志願したのである。

その友人の林昭君(花田町出身)と仲良く入隊、海軍精神を叩き込まれた末、高知海軍航空隊に飛行術練習生として転進していた。
当時は自分の生死自体論ずる暇も無いほど軍人になりきっており、死することに気高い優越感を抱くまでになっていた。
それでも同期生の中には親達の面会を望んでいる者もいたが、親の反対を押し切った手前、
私としてはそれは望めないものと終始自分に言い聞かせて、珠に出す手紙の文面もいつもありきたりの、
げんきでやっていますという、印刷したようなものであった。
20年の1月、日本の戦果も下火になりかけたある外出日に、航空隊指定の倶楽部に電話があることに気付き、ふと故郷に電話してみる気になった。
私も、いつ前線に行かねばならないときが来るかもしれない。

今生の別れに、両親に今までの不幸を詫びたい一心に駆り立てられ、早速家へ電話をした。
妹が出て、両親は不在。次回の外出日に待ち合わす連絡をして電話を切った。
その日にやって来たのが父、母、弟の三人で、妹は留守番である。
これが、半年後に永遠の別れになるとは夢にも思わなかった。
面会15分程で警戒警報となり、私は直ぐ隊へ引き返し、ただ互いに元気を励ましあっただけだった。
私の家は姫路市五軒邸で、父はミシン糸の製造販売を業とし、海軍衣料廠指定の軍需工場を経営していた。
妹達の話では・・・・・

22日の昼11時半頃の食事前、空襲警報が出ると同時に川西航空機会社に爆弾が落下し、それダマが直撃した一瞬に、家族
の全員が家屋の下敷きになった。
父と母は、重症の為かうめき声が聞こえていたが、間もなく焼夷弾が落下。
幸い二人の妹は軽傷で、壊れた家の下から這い出し、裸足で逃げた。
弟は、警報がなると敵機来襲を電柱の上から見るのが習慣らしく、その時も登っていて吹き飛ばされ、後になっても遺体は見つからず終いであった。
二人の妹はかろうじてのがれ、上郡の親戚に引き取られた。
上の妹は体中傷だらけで、下の妹は手の甲に砂片が当ったらしく包帯をしていた。
父母は材木の下敷きで、そのまま焼死していた・・・傷ましい限りである。

私は帰郷後、翌日から被災者としての後始末が始まり、姫路へ毎日のように妹と通うことになった。
第一にやらねばならぬ事は死亡した3人の検死証明を取ることである。
弟の骨が無いため、親の骨を貰った事にして姫路の警察に掛け合ったが、なかなか聞き入れてくれず、やっとのことで手に入れた。
その間にも日時が過ぎ、帰隊の日が迫ってきた。
後ろ髪を引かれる思いで、私は二人の妹を残して別れたのである。
その時私は数え年で20才、妹は16才で女学校3年生、下の妹が12才で国民学校5年生だった。
敗戦が直ぐそこにあり、再び私達が会えるという日も知らず、私は上郡を去ったのだった。

 

姫路川西空襲記

川西航空機姫路製作所は、姫路市天神町49にあった元日本毛織兜P路工場跡の5万余坪の敷地をそのままに、昭和17年7月1日に発足した。
航空機製作が始められたのは昭和18年4月であり、5月には姫路製作所の第1号機が完成した。
その後、水上戦闘機が局地戦闘機になり、NIKIがNIKIJ、NIKIJ2、NIKI、J改と新しい機種が続々と誕生した。
昭和20年4月、B29数機が姫路の西南方から北東に飛び去った。
川西の工場では突然の出現になすままもなく、工場の空き地には完成、未完成の翼や胴体が並んでいた。
幸いにもB29は通過したままそのままになった。
しかし近いうちに空襲があるだろう、そのことを思うと私の心は暗然となり、なんともいえない気持ちになった。
それから数回、B29は飛行雲を引きながら姫路の上空を通り過ぎた。

昭和20年6月22日午前10時頃、警戒警報の無気味な音が聞こえてきた。
それまで空襲を知らない私達はのんびり聞いていたが、あまり警報が長いので不安に思った。
工場は作業を止めて、それぞれ一団となって退避する姿が見える。
そして大半の人がいなくなった頃、大西君と他に二人が検査場にやってきた。
現場の人は殆ど退避した。検査工も市川の方へ行ったことを報せてくれた。
私達も、大西君・小坂君・青田君と私の4人で市川の河原へ行くことにする。
まさか爆弾は落とさないだろうと思いながら、何も持たないで工場を出る。
補助翼の組立工場まで行くと、組長の三木君に会う。
早く逃げないと駄目だと言ったが、三木君は工場から離れられない立場にあるからと答える。
それが三木君の最後の言葉だった。工場には人影もまばらだった。

私達4人は会社の門から出て、市川の河原へ急いだ。警報は無気味に続いている。
市川の河原にはたくさんの人が群れている。ここは危ないと思った。
土堤の上を4人で南に走る。誰かが大声で喚いている。土堤の東へすべり降りる。
小坂君は爆撃の時には目と耳を両方の手で押さえるようにと注意してくれる。
B29の姿が小さく見えていたのが、見る間に大きくなり、爆音は無気味である。
姫路駅の上空に来たと思ったとき、黒い塊がバラバラ落ちて、シャーッという音がする。
私は夢中で目と耳を両手で押さえる。
ズズズン、腹に響く音、そしてその直後に私は見た。

黒い煙が空高く舞い上がり、紙や木片や塵がバラバラと舞うように飛び去って行く。
工場の屋根はなくなり、無様な鉄骨が残っているだけである。
姫路駅のあたりは変った様子はない。市川の河原も無事であるようだ。
空襲警報だ!
そのたびにB29の編隊が南から飛んでくる。同じ進路を進んでくるようだ。
姫路駅の上空に来ると爆弾を落とす。同時になんとも言えない音がする。
爆弾の落ちる時に発する音かもしれない。
空に舞い上がる煙はますます大きく拡がる。空襲はいつ止むのか分からない。
市川橋の上も下も、人がウロウロしている。誰の顔も強張ったままだ。早く工場に戻らなければと思う。
大西君と検査の養成工が二人一緒になって、4人で会社へ帰る事にする。
部品検査の女の子が負傷しているからと誰かが知らせる。

女の子の負傷は足だった。歩けないので養成工の一人が背に負うことにする。
小川橋を渡って1、2丁歩いたら道端の農家の人が見えたので事情を話してリヤカーを借りることにする。
御着の医院へ行ったが、ここも負傷者でてんやわんやである。
待合室に入れないで土間に莚を敷いて数人の人が寝ている。
私は医院の人によく頼み、女の子には二人の養成工がついているのでその間にリヤカーを返しに行った。
会社の惨状は予想以上である。表にある倶楽部の中は負傷した人で満ちている。
足首を失って痛みに泣いている人もいる。
組み立て工場の辺りには大きな穴が数ヶ所もできていた。

屋根はなくなり辺り一面瓦礫の山で、ガラスの破片や塵がガレキの山に混じっている。
検査場は一物もなくなっていて、机も作業台も物入れや検査に使う器具も、残っているのはガレキの山と大きな穴と鉄骨だけだった。
誰かが工場の中を歩けるように片付けていた。
誰がしたのか、道端の少し高い所に人間の歯が上下の分を並べて置いてあった。
馬も死んでいる。少し行くと死んだ人がまだそのままである。
素っ裸で死んでいる人がいる。爆風で衣類が吹っ飛んだ為である。身体はロウのように光っていた。
足だけは靴をつけている。靴下が焼けて一寸ほど残っている。
西出口の近くで背広姿の死体がある。格別に損なわれた様子は見えなかったが調べると、後ろの尻が丸く切り去られている。
写真を撮る人らしいと聞いた。

京口駅から北へ2丁余り歩くと、首のない人が塀にもたれて死んでいる。
首から下はどうもなっていない。不通の人が立っているのと変わりはない。
ポケットに身分証明書があったので、治具組立の秋山君であることが分かったが、首から上を鋭い刃物でスパッと切った様になっていた。
馬車道の橋の下でもたくさんの人が亡くなった。
検査工の奥さんが里帰りをされていたが、空襲の前夜か当日に帰宅、難に遭われたのも橋の下だった。
艤装班の検査工一人が徹夜をして、空襲の日は朝帰る事になっていたが、班長が帰らせなかったので亡くなった。
班長が殺したのだと怒っている人があった。

検査工の津田君は運のいい人だった。
津田君の話によると、空襲時に会社の中に居て、B29が爆弾を投下するのを目にして思わず地上に伏せた。
爆弾は僅かにそれて落下、立っていた3人の人は何か強い力でぶっつけたようになって死んだ。
目玉が飛び出して哀れな姿だったが、津田君はかすり傷もなく無事だった。
しかし、精神的な打撃は相当大きかったようで、その後、警戒警報があると顔色を変えて、誰よりも早く避難した。
人生の禍福は紙一重である。
川西航空機姫路製作所空襲による死亡者は200名以上だったと聞く。

私は川西航空機姫路製作所で主翼組立検査工をしていた。
この後、いろんな人からいろんな事を聞いたが、そのことは書いていない。

 

黒煙天をつく

私は当時、姫路緊急工作隊第1中隊長だった。
緊急工作隊というのは、昭和18年2月に防空法施行令(勅令)に基づいて、土木建築の技術者、技能者を以って特別任務を持つ、
内地防空の任に当る隊であった。
民間の防空、防災施設の指導、管理、退避壕の築造について技術的な指導と築造工事の協力、防空監視、空襲時の救援等、
広範囲の任務を担当していた。
姫路市内を3等分し、各中隊が担当区域の配備についていた。

太平洋戦争突入と同時に本格的な活動を開始したが、初期は本土に敵襲もなく平穏だった。
やがて、日本は次第に旗色が悪くなり、本土空襲の危険が迫り、防空体制は一段と強化されるようになった。
そして昭和20年に入ると、敵機は次々と本土に侵入し、主要都市、主要工場を爆撃したのである。
私達も兵庫県内の被爆地の救援に出動したが、損害甚大で、少数隊員では手のつけようのない状態だった。
姫路は軍都であり、また川西航空機工場があり、爆撃目標に入っていることは当然だった。
もちろん、防空体勢は充分にできていたが、何分敵襲が大規模の為安全とはいえない。
同年2月に軍の命令で、工場周辺の民家の強制立ち退き、建物疎開を開始。
工作隊第一中隊は各種団体の協力を得て、命令期日までにこれを強行し、空襲に備え待機していた。
隊員は勤務服装のまま起居していた。

昭和20年6月22日午前9時半頃、空襲警報発令。
同時に、我が工作隊第一中隊は川西航空機工場の西隣150bの城東国民学校グラウンドに設営していた監視所に出動した。
すると、10時半頃B29が9機、一列横隊爆撃隊形で南方から侵入してきた。
全員に退避命令を出し、壕に入ると同時に250`爆弾が轟然たる音と共に炸裂した。
一瞬暗闇となり爆風と飛散物がすさまじい勢いで壕に侵入し、しばらくは何も判らない。
しばらくして立ち上がると、壕の上部は吹っ飛び、架構材が崩れ落ちようとしていた。
私は全身負傷していた。

その傷が原因で神経障害を起こし、特に右手がひどく、現在に至るも完治困難で困っている。
見渡すと、付近一帯はこっぱみじんの有様で、死傷者も散見された。
これを救助しようと踏み出したところ、第二波の空襲が来たので、急いで予備壕に飛び込んだ。
爆音が止んだので壕外に出て活動しようとすると第三波の空襲である。どうしようもなかった。
第四波の後、爆撃圏外に出て退避するように命令を出し、約300b後退した。
第五波来襲後、敵機は退散したので警報解除となり、やっと救援活動が出来るようになった。
点呼を行ってみると、隊員の中1名が即死、6名が負傷していた。

即死者は第一波空襲のとき至近弾が4bの位置に落ちたのである。
工作隊壕周囲の着弾数約30発。
これから推定すれば、全投弾数は600発に及ぶと思われた。
そして、投弾数から推定すれば、来襲敵機は約30機と考えてよかろう。
火災が各所に起こり、黒煙が天に沖する有様で、防空態勢は何の役にも立たず、大川西航空機工場は完膚なきまでに爆砕されてしまっていた。
二度と戦争はしてはならない。



首のない赤ちゃんを背負って
   朝鮮人の被災

川西航空機空襲の日は氷上郡の中島さんという家に行っていました。
朝11時頃だったでしょうか、子供が病気になったものですから病院に廻りました。
そこでニュースを知ったのです。
駅に行ってみると姫路方面の空襲で、「京口駅行きの荷物は預からない」と張り紙がしてあるのです。
大変なことだ、京口だと自分の家が北東郷町にあるから、ひょっとすると焼けてしまったかもしれないと大急ぎで帰ってきました。
姫路駅には午後の2時頃に着きました。
汽車の窓から覗くと、市川の鉄橋辺りから山陽皮革がくすぶっているのが見えました。
国道の姫路陸橋に大きな直撃の穴が開いていて、その付近一帯はもうすっかり壊されてしまい、
どこに自分の家があったのかさえ見分けがつかない有様です。
土埃と煙でさっぱり見当がつかない。

家から100bの所にキョウさんが住んでおりましたので、そこで家族のことを尋ねましたがキョウさんもそれどころではないらしい。
ただ、市川の橋の西に日本フェルトの寮があって、そこを訪ねたらというので行ってみると、運良くそこに震えていました。
食べ物がないので、お粥を炊いて一時しのぎをしました。
夜になっても夜具もない。しかたなしに、近所の田圃に麦わらがあったのでそれを敷いて野宿しました。
いろんな虫が出てくるし、蚊が集まってきて、とても眠るどころではありません。
満州方面から引揚げてきた運転手がおりましたが、死体輸送にかりだされて、今は水道会館があるその横の寺に死体を運びました。
市川は真っ黒な水が流れていて、ウナギなども浮いていました。

あんな後のことだから、そんな魚なんか獲る事なんか考えつきませんでしたが、川の中に入ってすくい上げているのには驚きました。
死人もけが人も出たその川で魚を獲って食べる神経はただ事ではありません。やはり飢えていたのでしょうね。
たいていの人は死体のむごたらしさを目撃した直後ですから、腹は減っていても、食事になるとノドを通さないと言っていました。
下の弟と息子の二人が日本フェルトに行っていましたので気がかりでしたが、二人は小川橋がやられる前に橋を渡って山へ逃げていて無事でした。
無事なことを喜びあいましたが、一家7人のうち5人まで亡くなってしまった鄭賛得さんは悲惨な目に遭ったうちの一人です。
家は丸尾町にあったから、川西航空機、山陽皮革、フェルトに取り囲まれた地域です。
赤ちゃんを背中にくくりつけて、爆弾が落ちてくる度に地に伏せながら逃げていった。

やっとのことで助かって。やれやれと思って背中の赤ちゃんを下ろして見てびっくり仰天した。
赤ちゃんの首は爆風で吹っ飛んでいたのでした。
鄭さんはそれも知らず、胴体を背負ったまま必死で逃げておりました。
二本松町には爆弾が一発落ちたのですが、バラック建ての朝鮮人部落は一軒残らず焼けてしまったのです。
当時、姫路市には朝鮮人の戸数は240〜250戸ほどありました、少年刑務所の裏の山畑町、駅裏の芝原、千代田町、二本松といった、
市民が寄り付かない所に住んでいました。
しかも、元気な者は九州の炭鉱だとか南方へやられていた。
私などは、たまたま病気が出たり、二度目は検査前に入院したりして奇跡的に助かったのです。
南方の人は船でやられてしまいました。


被爆状況

   日本フェルト

6月22日の川西航空機爆撃の側杖を食って、本社工場内の倉庫の大部分、工場ならびに付属建物の一部を全焼しました。
また、機械設備、収容品もほとんど罹災して、午前11時半頃の被弾から午後5時までかかって鎮火しました。
このときの犠牲者は4名でした。
市川河原で六車重太郎(業務課長)、屠殺場付近で山中仁(資材課)、重谷藤一(用務員)林初太郎(運搬員)が殉職されました。
7月3日の夜半から4日正午に亘って、焼夷弾の集中攻撃を受けて、作業場、機械設備と収容物の大部分が罹災。
こおn2回の爆撃で全工場の約7割5分程度の損害があり、生産機能は全く停止の状態であった。

当時の工場敷地面積は14,618坪、工場・倉庫・事務所などの建物が4,280坪であった。
海軍の管理下にあって、監督官として服部・木村の両大佐が来社していた。
生産品目は羊毛フェルト、牛毛フェルト、粗毛フェルト、硬質フェルトで、従業員は約200名。
他に学徒動員として、日ノ本学園、単独小学校から150名くらいの学徒が生産に従事していた。


   山陽皮革の被害状況

隣接の川西航空機の爆撃と同時に会社内の建物は大部分が焼失しました。
社員数は800名余で、軍隊に納入する靴の甲革30万坪、月産15万足の靴、その他馬具、大砲の付属品(革製品)を主に製造していた。
その時の社長は石川半三郎(陸軍中将)で、工場面積3万坪、他に敷地2万坪だったが、空襲で90%の損害を受けて、生産機能は全く停止した。


 



 

 




 

 

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