花柳界から流れた空襲の予言

「父(良一)の話」

空襲が7月3日の深夜から4日にかけてでしたから、その前日の2日に
「明日は姫路がやられる」と、花柳界から流れてきた情報で(空襲があることを)知っていました。
私はデマだろうと思っていたのですが、家内がそれを信用しとったんですね。
いざに備えて家内は眠らなかったのです。
私は昔からの習慣で、寝巻きでないと寝付かれないタチですから、その晩もソウやって寝ておりました。
そこへ警報でしょう。電灯が消える。
真っ暗な中で防空支度ですから、なかなか思うようにならない。
やっとこさ着替えたら、照明弾が降ってきて外は昼みたいになった。
仕事場の下に防空壕を掘っていたんですが、うっかりここにいたら蒸し殺されてしまう思ったんで、
家内は赤ん坊を背負い、両手に一人ずつ子供を連れて逃げました。
私は大事なものを入れた乳母車を押して、その上に、頭から被る掛け布団一枚積んで逃げ出したんです。
その道が、当時の城南小学校の裏道になっていました。
その学校に駐屯しとったんでしょうか? 兵隊が逃げて行くのに出会いました。
頼りにしとる兵隊が逃げるのを見て、「これはえらい事になる」と思いまして、布団を防火用水に浸しまして準備しておりました。
大工をしていた山崎さんの前で、家内が乳母車を入れさせてもらおうと言ったんですが、
せっかく持ち出したのに燃えてしまうのは惜しいから、石垣の横へ車をつけて置き去りにしました。
辺りには布団を積んだ自転車が捨ててある。
一度は拾ってみたものの、やはり邪魔になるのでとうとう捨ててしまった。
空襲になるまでに、私は12回疎開しました。
商売柄、木が多い為ですが、世間ではちょっとアワテ者のように見られていたと思います。
私ラ、職人ですからナ。
親から板切れ一枚貰ったわけでなし、板一枚でも自分で働いて自分の腕一本で稼いだものなんです。
大切にしたい気持ちが強いんです。
12回疎開したところで、ほんの少し減っただけです。
なにしろ、大きな板を一枚積んだら動きにくくなるような大八車ですから、知れたもんでした。
でも、今でもいい仕事にかかる時には、その時の材料を使います。
その疎開先が手柄山の向こうの中地でした。
家内や子供をそこに直行させました。小学校5年生だった長男は、一人で逃げていったんです。
船場川の土堤には松の木がまだ生えておりました。
十二所前の松蔭橋の下に潜り込んだんですが、木橋ですからネ、いつ燃え出すか分からない。
また、そこを飛び出して、コンクリート橋までたどり着きました。
とにかく焼夷弾がパアーっとはぜりますと、火花がチュウインガムみたいに衣類に飛び散って取れません。
一緒にいた人で、ひどい火傷をした人がありました。
土堤に這い上がろうにも、とても上がれないほど風が巻き起こっていました。
立つ事なんかできません。
バラック建ての家なんか、見る見る空へ、焼けたまま舞い上がっていきました。
恐ろしさで朝までじいっとそこにかがんでいました。
私ラのように、貧弱な防空壕しか作っておらなんだ者は、壕を頼りにしませんでしたが、新身町の村前さんや高田二郎さんみたいに
立派な防空壕を作っておられた方は気の毒でした。
壕がアダになって、一家の人達が焼死してしまわれたと聞いています。

  南畝町(のうねんまち)の大将軍神社です。             現在の大将軍神社です。

  鳥居と社務所は残ったが、社殿が焼けて大木も枯れた。    もちろん現在はお城を見ることは出来ません。

  はるか彼方にお城が見える。                     その代わり、新幹線が走っています。

 

長男(弘郎)の話」

その時小学校5年生だった。
無銘の刀ですが、脇差と弁当を背中にくくりつけてもらいましてね、イザ敵が来たら一人でも刺そうという気持ちでした。
当時の子供はみんなそんな教育でしたから。
しかし、弾丸が落ちてきた時の気持ち悪さは今でも覚えています。
オヤジと二人、どっちが先に入ったか、どちらも記憶にないがりの勢いで壕へ飛び込みました。
だけど、壕は駄目だと直感したものですから家族それぞれに逃げ出したのです。
オヤジともオフクロとも分かれて、神田町から土山変電所の前を通って一人歩いて行きました。
その道の先はオフクロが落ち延びた中地へ続いております。
ちょうど、岡田の踏切(山陽本線)を越した辺りで、小学校で教えてもらっている柳井先生に出会いました。
自転車に子供さんを積んでおられた。
「先生!先生!」と叫んで呼び止めて、どこへ行かれるんですかと問いますと、今から相生へ行くと言われました。
先生が相生まで行かれるくらいひどいとなると、中地も駄目だという気になって線路沿いに英賀保目指して歩き出しました。
苫編間で来て、四つ池の土手にしばらく座っていました。
やっと空襲も収まりかけたので、また元の土山まで引き返して小さい丘(おそらく西延末の冑山)に人が集まっているのでそこにいました。
しかし、腹は減ってくるし、里心がついてしくしくやっていたんです。
罹災者にオニギリが二個ずつ配給になりました。
その丘から手の届くところに千代田町のマッチ工場があって燃え上がっていました。
ドラム缶に火がつき、それが爆発する音と火の手のすさまじさは口にしようもないぐらいでした。

  復興してきた御幸通りです。

  三和銀行から駅方向を見ているようです

 

 

 

 

 

猛火につつまれた銀行宿直員

警戒警報が出た。神戸銀行姫路支店の宿直は3名だった。
警報が出れば行員は最寄の支店へ駆けつけることに決められていた。
当日は5名駆けつけてきた。暑い時だったにもかかわらず、どの人も防空服装に身を固め、頭巾を持っている。
他都市の悲惨な被爆状況を見聞しているから、皆真剣である。
やがて空襲警報のサイレンが物狂おしく鳴った。スワコソと臍(ほぞ)を固める。
筋向いの清水さんがお年寄りと一緒に避難してきた。
清水さんは支店長秘書をしている女子行員だ。
万一の場合、地下室へ逃げ込むつもりだろう。次々と町内の誰彼なく逃げてくる。
清水さんが携行品を用意しておいたのに家に忘れたというと、誰かがさっそく飛び出して持ってきてあげた。
地下室の避難者は20数名になったと言っている。
私達は二階へ四トウ樽を運び上げて、それに水を張ったりシャッターを点検したり、別に誰に指図されるのでもなく、それぞれ気付いたことをやっている。
地下室の人達がぞろぞろ上がってきて銀行から外へ出て行く。
清水さん親子に、銀行が安全ですよと言っても、群集心理というものか出て行ってしまった。
こんな所にいたら窒息死してしまうぞということになったのかもしれない。
一人残らず出て行ってしまった。
表の道路で様子を見ていた一人が「空襲だ」と叫んで飛び込んできた。
表に出てみると、ずっと東の方、お伽屋町辺りで焼夷弾が燃えている。
やがて近くにも落ちてきた。
銀行の鉄筋の壁にもパッと油脂弾が燃える。
清水さんの家にも落ちたと言って、2,3人がバケツに水を入れて駆け出す。
本館の天井に落ちたと中から叫ぶ。
本館の営業室の天井とその上の屋根はキリスト教会のガラスのような美しいガラス張りであった。
防空上、光の漏れるのを防ぐため、屋根と天井の空間に色々な物をたくさん詰め込んでいた。
そこへ焼夷弾が突き刺さって徐々に燃え広がってゆく様は、下から眺めて実に神秘的な感じだった。
上からも下からも手の届かぬ所で、妖しい美しさで燃え広がって行く。
「下の机を片付けよう」と誰かが言った。
出納の棚の辺りへ天井から燃えながら何かが落ちてきた。
全員で机、椅子類をガラス天井の下をはずれた廊下、支店長室、文書庫の入口辺りへ一生懸命に運んだ。
「アッ2階が燃えている」2、3人が駆け上がる。
「危ないっ!」と叫ぶと同時に天井枠の材木がドーンと燃えながら落下する。
中庭の水槽の水を運んでこれにぶっかける。次々におちてくるから危険だ。
通用門の鉄格子から見える向かいの家並みの火勢はすさまじく燃えている。
僅か数メートル中庭に出て、水槽まで往復するのがとても熱い。
天井からの落下はますます激しく、ちょっと休めば手に負えぬ火勢になると思うから銘々必死だ。
町の火勢はつのり、巨大な炎の舌が通用門の鉄格子を舐めている。
サーッと紅蓮の炎が道を掃く、火の粉が流星のようにきらめいて走る。
誰も彼も熱くてたまらないから水槽に飛び込んで頭から水をかぶる。ハアハアと口で息をしている。
客溜りの御幸通りの側の窓枠が燃えている。慌てて消す。紐が燃えていたのだ。
シャッターの隙間から覗いた町も火の海だ。パテが溶けてしまっている。
栄魚室の天井からはいくらでも材木が焼け落ちてくる。
露台から水を掛けてみようと思って、一人が駆け上がり、一歩露台に出ると目に入る限り全市火の海だ。
熱い、呼吸が苦しい。
小走りに駆け寄って天井の方へ水をかけたが、全くムダだと分かった。
「水を大切に。よく狙ってかけよう」と叫ぶ声。そうだ、命の水だからなと思う。
水槽へ飛び込んで水をかぶりつつ、ハアハアとあえぎながらの死闘が続く。
必死の消化が何時間か続いた時、「心配のない火は消すな、暗くなるから」と呼びかけてくる声。
しかし、この頃にはもう消し止められると誰しも感じたに違いない。
通用門から見える町の家々は焼け崩れてしまって、まお火勢は強いが峠を越している。
これでやっと火に勝ったと思った。
代わる代わるに屋上に出て、まだ燃えている市街を眺めた。
おお、お城が残っている。確かに残っている。
明け方になって、残っていた勧業銀行の最上階が燃え出したのが窓から見える。
夜が明けて、呉服町の素封家永井紙店の土蔵がドンと大きな音響がした。
黒煙が屋根も瓦も一緒に吹き上げたと思ったら、真赤な炎が土蔵から一杯舌を出して周囲を舐め尽した。
そして長く燃え続けた。
頑丈な土蔵が乾きに乾いて、ついに自然発火したものと思われる。
営業室の火も消えた。
いつ頃だったのか、父が重箱に握り飯を詰めて持ってきてくれた。
行員よりも早くに、この熱気の中をどうやって来たんだろう。思わず涙ぐむ。
みんなで握り飯をほおばった。
別の重箱を神崎さんに届けたいという。
神崎組の現会長の奥さん、社長の奥さん、お子さんを隣家にお世話して疎開しておられたからだ。
危ないから僕が届けることにして父を帰した。
もちろん、神崎組も全焼して土蔵から炎が吹出していた。現会長さんがただ一人、それを見守っておられた。
ヤレヤレと銀行に引き返した途端、足がもつれて歩きにくい。
やってき始めた行員に慰められ、労わられて宿直室でごろ寝する。
目覚めたら、今度は目が開かない。
眉毛が焦げているし、目が充血していると言って、汲んでもらった水に顔を突っ込む。
支店長に「ご苦労さんだった、帰って休んでくれ」と言われて、重い足を引きずって約13キロの道を夢前町の我家にたどり着いたのは夕方であった。

 

陸軍病院の門衛兵として

空襲警報が鳴り出した。
またおざなりの敵機が一機潜入したのかと思ったとたん、駅上空が真昼のようになった。
と同時に焼夷弾が雪崩のように落ちてきました。
暗闇を貫いた油脂弾が屋根にバウンドして10bも飛び上がって破裂しているのが手に取るように見える。
私のいる所は、分病舎の西方の小高い築山みたいなところで、病棟との間に運動場がある。
その西端に10bの傾斜があり、ここに壕が20ばかりあって患者の避難場所になっている。

私は、姫路陸軍病院へ1年ほど前の8月に召集された。
3ヶ月の教育が終わると伊勢湾陣地構築の命を受け、軍医以下13名の中に繰り入れられた。
ところが、この出張中に大地震に見舞われ生き埋めになったのですが、九死に一生を得て又姫路に舞い戻って門衛の勤務をしておりました。
患者の避難場所の上が私達の巡回路になっており、大木になった桜並木があり、その線に沿って有刺鉄線が垣を作っているのです。
もう少し西は堀です。
私は「空襲」と連呼しながら走り回りました。
警備兵の私は壕に入ることが出来ません。私は運命に委ねて見守ることしか出来なかったのです。
焼夷カードが一面に落ちてくる。
病院上空の落下カードが裏側の弾薬庫の屋根にせき止まった。
火の屋根、爆発したら木っ端微塵。一瞬固唾を呑んだ。水防班が放水しているが何の役にもたたない。
爆弾ではないので安全ではあるらしい。爆撃は北へ移った。
北方の砲兵隊の打ち出す音が耳をつんざくが、何の変哲もない。
機音が聞こえる度に20〜30の焼夷弾の炸裂する音がして、瞬時に火災が中空を焦がす。
焼夷カードは空一面に飛燕のように舞う。
市民の方はどうしておられるだろうか・・・・・。
何もかも捨てて逃げられるよう、私は祈りながらも、異様な光景に我を忘れて呆然としていました。
心のどこかでは早く下火になることを念じておりました。
爆撃は西に回り、私は四方を囲まれた形になりました。
『逆巻く紅蓮は四辺を修羅場と化し、百鬼荒れ狂う生き地獄』の言葉は、この世にありました。
火災が起こす熱風は竜巻となり、所々に点在する松の大木を巻き込み、枝をしごきとるようです。
そのきしむ音は、荒れ狂う巷に拍車をかけるようだった。
直径10b程の火柱があちこちに見え始める。
奈良、京都に倣って、城と病院は(爆撃から)逃れるだろうと聞いていたのでいくらかの安心感はあったが油断は出来ない。
天災なれば諦めもつくが、何故こんな目に遭わなければならないのか。
日本軍司令部から殺人的暴挙が出されているとしか思われない。
米軍よりも日本軍部が憎らしい、戦場帰りの兵が言っていた。
戦争は無茶である。
殺人、放火、強姦etc.平和時にあっては一切の罪になることを正常な心で行う。
私達は現在殺される破目に立っている。自然に生きようとしているのが人間のみんなだ。(ちょっと意味が分からない

お前らに殺されてたまるか!
「馬鹿野郎」「おれはどこまでも逃げて生きるぞ」
私は心中でこう叫びながら歩き回りました。
空襲も終わったのか、飛行機の音も聞こえなくなった。
助かった、一息ついた私の耳に高空を飛ぶ機音が伝わってきた。
哨戒かなあと思うと同時に、私の頭上できりもみ音がして、頭の心に何か突き刺さるなと感じた。
私は銃を捨てて飛鳥のように有刺鉄線を超えてサクラの大木にしがみついた。
とたんに30b前方の運動場に巨大な油脂弾が落下して、2b四方に燃え散った。
私は腰が抜けて立ち上がれませんでした。
付近にはガソリンのドラム缶が7、8本あり、壕にも近く寄り付けない。
幸いに、患者が20名飛び出してきて毛布でたたき消した。
もう10b近ければ、私は火のお見舞いを受けたかもしれない。
ふと見れば、姫山公園の土塀の上にも(油脂弾が)落ちて燃えている。
しかし、爆撃はこれで終わりました。心が静まるにつれ、火勢も衰えました。
落城に見紛う(ように)、城が真紅の色に包まれて中空に浮いていました。
夜も明け初め、勤務交替で私は門衛に帰りました。
門は大きく開かれて、門際には医療所が急設され、道路を行き交う民間の負傷者を誘導し、治療におおわらわでした。
掌のつぶれた人、腹を撃たれた人、火傷の人、次々と運び込まれる人々を見て、余りの厭わしさに目をそむけました。
近くの被服廠はまだ盛んに燃えていました。
翌日、下番なので公用を利用して町に出ました。城南練兵場に出る。
見渡す限りガレキの荒野。駅前近くまで歩いてみました。人っ子一人居らぬ焼跡は、まだ熱気が高く人を寄せつけない。
グラマン2機が低空を飛び交っている。私はもう抵抗する気も失っている。
つい目の先に、半裸の婦人が幼児を背負って、焼け残った水道の蛇口に口を当てていました。
自宅の焼跡を見に来ているのでしょう。
堀端で二人の婦人が「この仇は必ず討たねばならぬ」とささやきあっていました。
私は言い知れぬ悲哀を感じました。
「お前達は敵味方を分かたず、負傷者を救う勤めを持つ兵である」と教育を受けてきた私達である。
迷いはないが、何を頼り、何を誓い、何を恨んで生きねばならないのか、あまりにも情けない1年有余ではありました。
まして、民間の人達は苦しい忍従であっただろうと思います。
私ももう60歳。
過去のことは次々と忘れていきますが、姫路の空襲だけは忘れません。
それは、生死を賭けた一夜であったからかもしれませんが、終戦の前兆でもあったからでしょう。
私は時々姫路を通る事がありますが、繁華街や観光地を見ることもなく、城ばかり見上げて往時のことを偲んで
姫山を去り難く思うのです。
申し訳ないのですが、堅苦しいことば遣いで充分理解できませんでした。

  相生町(どこら辺りか詳しく調べておきます)から

  東の方を見ているようです。

  右の建物は白鷺館(映画館)だそうです。

  中央の枯れ木の右に船場川が流れています。

  そこに福中橋があったそうです。

 

 

 

城陽国民学校長 大西要氏の殉職

当時、姫路市立国民学校は16校あった。
その中で戦災を免れたのは城北国民学校ほか数校で、殆どの学校が戦災を被ったのである。
このことについて語り継ぐべきことも多いと思うが、城陽国民学校長大西要氏の殉職は、是非残さなければならないと思う。
しかし、その詳細について調査することは非常に困難であった。
幸い、兵庫県教育史の中に、当時同校の校長と行動を共にした川端貞明君の記事があったので、これが唯一の手掛かりとなった。
更にその文中に出てくる尾上先生を探すと、同氏は当時同校の学校看護婦として勤務していた尾上ちえ子さんでした。
同先生は今も城陽小学校の近くに主婦として健在で、詳しく話を聞くことができた。
調査を進めるうちに、大西校長の履歴が判らない。
同氏の前任校は城崎郡香住小学校であったということを確かめ、香住小学校長山崎平八氏に依頼して履歴書の写しを入手した。

河崎貞明君は昭和40年6月10日に白浜小学校教諭在職中、執務中倒れ、殉職と言ってもいいような他界の仕方をされた。
教壇上で倒れられたことは何か奇しき因縁を感ずると共に、君にたずねることの出来ないのも痛恨の極みである。
当時の市視学(?)前田秀夫氏、同氏と共に市議会議員として大西校長の郷里での葬式に列席された尾上宇市氏等の話も聞き、以下略説したい。

大西要校長は、明治30年2月2日に兵庫県多可郡黒田庄村黒田285番地で出生。
大正7年3月、兵庫県御影師範学校本科第一部を卒業、大正13年に中等教員(体操)の文部省検定に合格。
また、剣道3段(大日本武徳会)の免許も受けておられる。
大正7年4月より神戸市楠尋常高等小学校に就任、選ばれて大正10年には御影師範高等付属小学校に勤務。
この間、文検に合格、13年12月より訓導兼教諭となり、昭和2年には氷上郡芦田小学校に校長として栄転。
ついで昭和6年に多紀郡古市小学校長、11年6月朝来郡生野小学校長、16年には城崎郡香住小学校長となる。
同校に3年在職後、昭和19年末日付で姫路市立城陽小学校長となられた。
姫路に来られても、ご家族は香住町香住1559番地におられた。
本人は単身赴任され、城陽校の講堂の裏にあった和室の付属家に起居されていたようである。

尾上ちえ子さんは姫路市北条525の自宅から避難して、学校の東側、市川土堤近くの松林の中にご家族と一緒に居られた。
赤ん坊であるお子達も居られたので、落下する爆弾と、被弾による火災で生きた心地もせず、敵機の退散を念じておられたようである。
学校も焼ける、海軍衣糧廠も焼ける、民家も焼ける。
どうなることかと思っていると「爆弾にやられた、誰か来てくれ」という声がする。
どうも学校の清水用務員の声らしいので子供達を家族に託して松林伝いに溝のところまで行ってみると大西校長であった。
驚いて近づくと、腹部より出血多量である。
持っていた三角巾を出し、日本手拭を腹部に当て、三角巾で締めて応急手当をする。
そこへ戸板を持ってくる人があり、それに乗せて軍人付き添いで連れて行かれた。
気になりつつも、赤ん坊がいるので元の避難場所に帰られた。   (誰がどうしているのかよくわかりません。)

更に詳しい事情は、兵庫県教育史に記された川端貞明君の記述によることにしよう。
昭和20年7月3日午後11時40分、空襲警報が発令される。
当日、宿直の勤務にあった大西要校長と自分はすばやく身支度を整え、直ちに奉安殿に行こうと講堂まで駈け付ける。
既に西の方角の姫路駅をはじめ、海軍衣糧廠には敵の焼夷弾が無数に落下。
火焔天を焦がすその様は、例えようもない。
すぐさま講堂入口の扉を開き、ご真影を取り出すと、直ちに校長は御真影をしっかりと背負い、自分はこれを警護した。
そばに居合わせた清水用務員を
促し校庭の御真影退避壕に入ろうとするが、敵弾間近に落下する恐れがあるため付近の堤防に一時避難する。
校長の発言にて付近の松林に退避することにする。
御真影を背負った校長を先頭に、自分がこれに続き、細道をまっしぐらに突進する。
時しもあれ、またも敵機の爆音を頭上に聞く。
直ちに、校長は田んぼの畦付近に、自分はそれより約1b離れた道路の傾斜面に伏せる。
と同時に、辺りには焼夷爆弾が無数に落下。火の粉が雨アラレと降り注ぐ。
ふと我に返れば一面火の海で、身は火達磨と化す。
直ちにその当りの田んぼの土の上をころげまわり、また、身体に泥を塗りたくって身体に付いた火を消す。
さっそく退避しようとして校長を呼ぶも返事がなく、不審に思って校長のもとに駆けつけると、ああ無残!!
校長は敵弾一発を腹部に、更に一発を腰に受けていた。
「しっかりしてください」と抱き起こしたところ、すでに大腸が露出し血潮は滝のように流れている。
すぐさま応急手当てをして「頑張ってください!校長先生!」と声を限りに叫び続けると、苦しい息の下から「御真影を・・・」の一言。
さっそく御真影を校長の背中から外し、しっかり(自分が)背負う。
その辺に転びつまろびつ松林に駆け込むや、またも憎むべき敵弾は松林付近に夕立のように降り注ぐ。
校長先生の様子があまりに気になるので、遭難現場に駆けつけると、そこに尾上先生と二人の婦人と一人の軍人が看護に全力を尽くしておられた。
さっそく「校長先生、御真影は安泰ですぞ。しっかり頑張ってください」と言えば、苦しい中から両手を差し出して「御真影を」とおっしゃられる。
すぐに御真影を差し出したところ、校長は震える手で御真影をかき抱き、ひしと握られる。
その強い力は「死んでも放さないだろう」と思われるほどだった。
畏れ多くも御真影を包んでいる白い布はその為真赤に染まっていた。
「校長先生!頑張ってください!」「校長先生!」と口々に叫び続けると、校長先生は「天皇陛下・・・・・」とかすかにおっしゃられる。
「天皇陛下万歳ですか」と問えば、かすかにうなづかれる。
一同、泣きながら「天皇陛下万歳」と大声に3回唱えると、校長先生は3回、固く握った指を伸ばされた。
この頃から校長先生は意識不明となりつつも、なお「御真影は・・・」と叫び続け、御真影の背負い紐をしっかりと握って放されなかった。
その為、校長先生には御真影の背負い紐だけを外して握らせ、戸板に乗せて担いでいった・・・・・・・・・・。

原文は口語体ではなく、一部文語体で書かれていますが読みにくいので口語体に改めて書きました。

  姫路駅前付近のヤミ市風景です。

  ヤミ市と言っても若い人にはピンと来ないかもしれません。

  物資統制があったのですが、統制で配給される物だけでは

  生活できなかったのです。

  そのため生活物資を求めて自然発生的な市場が出来ました。

 

 

 

火の中に水源地を守る

当時、私は姫路市役所水道課技術職員を奉職。
市役所においては空襲警報発令と同時に水道課職員は、町裏(坊主町)水源地の守備に着くことになっていました。
6月22日には、朝9時頃と思いましたが、川西航空機工場で爆弾の大爆発があり、多数の死者を小川橋及び竹の門橋の下にて目撃しました。
私宅は爆風と爆弾の破片で家屋に被害を受けましたが、家屋を家の者に託し、水源地の守備に馳せつけました。
防空壕の中で待機中も、爆弾破裂のため地響きがして耳を被わねば居られませんでした。
幸いにして、この爆撃は水源地に爆弾投下がなかったので被害はありませんでした。
空襲警報発令の際は、市内在住の水道課職員約15名が守備に出動していたものですが、次の7月4日の夜の焼夷弾大爆撃の時の宿直者は、
常勤のポンプ室職員2名(氏名不明)とほかに3名ほどで、故大塚文治、加古二郎、堀内幸(筆者)の3人でした。
焼夷弾は水源地構内に多数投弾され、燃え上がる焼夷弾を3名の者が「タタキ」で一個一個懸命にタタキ消し止め、水源地の焼失を死守しました。
当夜の焼夷弾大爆撃で、姫路市中心部は殆ど灰燼と化した。
この状況下にあって、僅か3名の人間が市民の生命を守る水源地の守備を成し遂げたのは実に天運というより他ありません。
しかし、この反面には次のようなことがありました。
当夜の焼夷弾大爆撃では、水源地の周囲が燃え上がり、構内では呼吸困難でした。
消火活動は、実際に身をもって体験した私にもうまく書くことが出来ませんが、決死的なものでした。
消火活動がやっと終わった翌朝の5時頃3名は自宅に引き揚げました。
幸いにも我家は諸室を免れていましたが、家の者は一人も居りません。
親・妻・子供達、どうか無事で居てくれるよう心に祈りつつ捜し歩きました。
数時間後に、北方の田んぼの中で布団を頭から被り、難を逃れていた家族を探し当てた時の喜びは
一晩、一睡もせずに決死的消火活動の疲れも消し飛んでしまう(程のものでした)。
上水道給水装置の戦災被害については、市内中心部においては各所において破裂しているため放水状態となっている。
男山配水池の水位が急激に下がった為、水道課職員総動員にて応急止水作業に日夜努力しました。」
その傍ら、飲食業者はいち早く応急住宅を建設していましたので、給水工事の依頼が殺到していましたが、
何分、給水工事資材(給管その他器材)が大不足していました。
焼跡を掘り、焼け残りの鉛管と器材を探し集め、それを工夫して一時流用、工事の依頼に応じていました。
しかし、その工事をするにも道具が不足の為、神戸市水道局へ道具器具の借用にしばしば出向いたものです。

 

布団の火が蚊帳に移ろうとして

当時、私は広畑区小坂に住み、神戸銀行姫路駅前支店(現在の東京三菱の旧店舗)に勤めていました。
昭和20年7月3日夜11時過ぎにラジオが「敵機は室戸岬洋上を北進中」と伝えた。
間もなく「四国上空を北進中」と緊迫した報道に、慌てて電灯を消し、家族は防空壕に逃げ込みました。
防空壕は、今思えば何の役にもたたない、粗末な穴倉にすぎませんでしたが・・・・・・・・。
やがて爆音らしきものも聞こえ出し、間もなく真っ暗な空は敵機の轟々たる爆音で、人の声など聞こえないすさまじさです。
爆弾の落ちてこないようにと、神仏に念じながら狭い壕で子供を抱きしめてひっそりと隠れていました。その間の長かったこと。
飛行機の爆音は次第に小さくなり、壕を這い出して広畑製鉄所の方を見ましても被害の模様はありませんでした。
受けた空襲は10分か20分程なのでしょうが、姫路市街の火の手は闇夜をあかあかと焦がして、その大火の模様が覗えます。
直ぐに店が気になりだし、家族のくどくどした注意を後に、自転車で取るものも取敢えず、店に向かって飛び出したのです。

英賀保駅を過ぎた頃、姫路方面からマラソン競争のように、先を争って走って来る人々が続きました。
市内の様子を聞いてみても、
「わからへん」 「焼けてしまいようで」
と口走るだけで、被害の模様は見当も付きません。
この人達のうちに、龍野まで走って行った人もあるという後日談がありますが、当時はそれ程に皆が周章狼狽していたのです。
岡田の踏切を越えて車崎に通ずる道は、当時は5〜6b巾での未完成のままの農道で、ようやく荷車の通れる巾以外は草むらでした。

この道の暗闇の中を逃げ出してきた人達は、街の焼けるのを言葉少なに見守るだけでした。
たしか播磨帆布会社であったと思います。
もの凄い火勢をあげて燃えている最中に、ドオウンと、手柄山にこだまして、時折激しい爆発音が起こり、時限爆弾だろうとささやき合っていました。
大きな火勢のあがる明かりの中に立っている人々の顔が(シルエットのように)浮かび上がっています。
草むらの中に、並んで座ったり寝転んだりしている兵隊さんに気が付いたのは余程してからのことでした。
武装して大勢いるようですが無言です。
本土作戦のために温存されていた兵隊さんなのでしょうが、その無力さが何か歯がゆい感じでした。
そうして1時間くらいは呆然と立っていましたが、少し衰えたように見えましたので、国道を東へ急ぎました。

船場は焼かれておりませんが人影はなく、船場川を渡れば町並みの余燼は熱く、まだ火の手を上げている家もあります。
余燼に顔を火照らせながら、縦横に焼け落ちた電線を踏み越えてようやく西紺屋町のたどり着いた頃は東の空も白みかけていました。
戸は開けっ放しで宿直者は見当たりません。
隣家の焼失で、裏の通路の屋根桁が盛んに燃えていましたが、とりあえず宿直室へ駆け込みました。
窓は開いたままで、蚊帳が吊ってあるのに、中の布団だけが燃えていて蚊帳の天井に焔が燃え移ろうとする寸前です。仰天しました。
私の到着がもう一寸遅れていたら本館以外が大事に至るところでした。
畳の一部を焼いて、床板を焦がせただけですんだことは、自分の責任が果たされた思いでホッとしました。
なぜ蚊帳の中だけが燃えていたのかは今でも不思議に思っています。

隣の第一勧業銀行は外壁と金庫室だけを残して焼け落ち、余燼はなお、炎を上げておりました。
誰しも、空襲を恐れて命からがら逃げ出していったのです。
銀行では、この事に備えて常日頃から対策を講じ、公共事業の重大性を教育しておりましたが、身の危険を冒して迄の強制は出来ません。
通路の屋根桁の消化は、防火用水の設備がしてありました。
恐る恐る営業室のシャッターを上げ、内部を見まわしますと、天井から明かりが見え、穴が開いている様子です。
時限爆弾が落ち込んでいるのではないかと気も動転して、とても一人では不安で寄り付けず、急いでシャッターを降ろして姫路支店へ
応援を求めに馳せつけました。

姫路支店はまた大変です。
防空頭巾を被った10人ほどの男女行員のなりふりかまわぬ炭で汚れた顔は、焼夷弾と戦って防火に打ち勝った責任感と安堵が見られます。
営業室はまさに火事跡で、並んだ机の上には、焼け落ちた木材が山積みされ湯気をたてており、ようやく火の手を消し終えたといったところです。
姫路支店の営業室の天井は、ステンドグラス張で、屋上に突出し、明り取りと装飾を兼ねていました。
空襲に備え、その筋の指導で、直径6センチ位の青竹を斜面に並べ、落下弾を滑り落としておりました。
室内の被害を食い止めるという防衛施設をしていたのですが、実にナンセンスと言う他なく、実戦には物の役に立ちませんでした。
当日宿直をしていた塚本さん(後の姫路支店長)は、同じく宿直勤務についていた二人と協力して、落ち込んできた焼夷弾と闘い、
抜け落ちた天井の燃え木を懸命に消火して店舗の大事を食い止めて焼失を完全に免れたのです。
この沈着な活躍は後日賞賛されましたが、塚本さんらしい行動だったと、今もその冷静さに感心しております。
空襲の恐怖は体験した者でないと分からないので、私など語る資格はありませんが、逃げ出していたために焼かずにすんだはずの家を
焼いてしまった人は随分おります。

本町の塚本医院などは、姫路信用組合(旧姫信本店)の耐火建築に防護されて早暁には完全に残っていましたのに
昼過ぎに帰る時には土蔵だけを残して焼け落ちてしまっておりました。
余熱の強かったこともありますが、焼かれたと諦めて、家の誰もが寄り付かなかったのでそんな結果を生んだと言えます。
さて、私は営業室の天井の穴のことを話し、気味悪がる某(元部下)と共に駅前支店へ引き返して、恐る恐る営業室へローソクをつけて入ってみました。
穴の下には別に爆弾らしきものも見当たらず、ただコンクリートの破片が散らばっているだけで以上はなさそうなのです。
本当にホッとしました。
急いで屋上へ駆け上がってみますと、焼夷弾の殻が二本と、焼夷弾を詰め込んで運んできたと思える
1b位の鉄棒を植え込んだコンクリート製の弾頭らしきものが一つ残っていました。
天井の穴はこの暖冬の落下で開いたものらしいのです。

隣の牛尾合資会社は3階の窓のシャッターから煙が出ておりましたが誰もいない様子です。
屋上から見る姫路の中心街は広漠と焼け爛れ(ただれ)所々にポツンと耐火建物があるだけで、まだあちこちに煙が立っております。
日頃見慣れたお城と、船場御坊の大きな屋根ばかりが目立ちました。
神戸銀行姫路駅前支店は、こうして焼け残ったおかげで翌々日の営業には差し障りなく開店できました。
お隣の第一勧銀は焼け出されて開店の場所もなく、当惑の末当店の営業室の一部借用の申し出がありました。
快くお引き受けして、6日より板囲いで隔てた同居の営業が始まり、店舗の出来るまで続いたのです。
7日夜半には、明石も焼夷弾攻撃を受け、東の空が赤々と燃え続けていた事を思い出します。

上久長町から北方面を見ている

    上久長町から北の方を見ているようです。

    上久長町は、現在の商工会議所がある辺りでしょうか?

 

 

 

 

 

 

昭和20年7月3日の夜

もはや戦後ではない、という声を聞いてから久しい。
でも、いまだにサイレンの音に怯える私にとって、あの夜の事は生涯忘れることの出来ない、いや、年を経ると共に鮮やかに脳裏に
浮かび上がってくる悪夢の夜なのです。
サイレンの音に飛び起き、いつもの通り身支度を整え、どうせまた解除になるから、と寝ていた父に「早よ逃げてよ」と声をかけて
表へ飛び出し、10歩も歩かぬ間に、いきなり辺り一面昼間のように明るくなった。
幼い弟や妹を連れて一足先に出た母と、いつもの場所へ行こうとした私の足は一瞬混乱したが、次の瞬間飾磨街道を南へと走った。
ひたすら暗いところを求めて・・・・・・・・・。
今日に限って一人だった。
連日連夜の空襲に、いつとはなしに慣らされて半分遊びのような退避であったが、先日の川西航空工場の爆撃に肝をつぶさされて
それ以降、びくびくしていたので、ああ今日は駄目だと思った時、足が竦んで身がブルブル震えるのをどうしようもなかった。
延末の辺りまで来た時、5〜6人の人達といつの間にか合流していた。
背の高い男の人が
「今日はこれで3度目の空襲に遭いました。神戸からここまで来ましたが、よろしかったら私が指揮を執りましょう」
と言われたので、すがりつくような思いで
「お願いします」
と頭を下げた時、ごうごうと飛行機の爆音が聞こえ、赤いランプのようなあかりが数個飛んでくるのが見えた。
「軒下に入って」
「布団をかぶって」
「さあ今の間に走って」
と、次々号令を受けるままに夢中で走った。
走りつつ、ふと前の方を見たら一面火の海、思わず振返ってみると、今来た道も家もメラメラと炎を上げ、天まで届くかのように燃えている。
一体どうなるのかなあ・・・と泣きべそをかいた時、
「軒下へ入って、伏せて!」
鋭い声に慌ててしゃがみこんで誰かが私の上にかぶさった途端、シュールシュールシュール・・・と音がして
なんとも言えぬきな臭い匂いに息が詰まりそうで、一緒に跳ね起きたら辺り一面火の海。
咄嗟に家の中に飛び込んだら、向こう脛をイヤというほど強く打ち、ひっくり返った。
その上に覆い被さるように奥の方から炎が降ってきたので、夢中で慌ててまた表へ飛び出した。
「慌てずに、しばらく大丈夫だ」
と、力強い声で励まされ、我に返って見回したら、その方のカバンがチロチロと燃えていた。
「油脂焼夷弾だからよかったよ」と笑っておられた。
その笑顔にようやく落ち着きを取り戻した私は、しみじみと辺りを眺めてみた。
50a程おき位にボロ布をこぶし大に丸めたものが散らばり、それが50a位の高さに炎を上げ黒煙を出して燃えていた。
田植の済んだばかりの田の中にもゆらゆら揺れて燃えていた。
異臭が鼻をつく。
言われるままに田の中に入り、自分の体と布団を水に浸け、次の指示を待った。
せっかく持ち出した荷物は殆どなくなっている。ずっしりと、水を含んで重たくなった布団だけが財産だった。
また爆音が聞こえてきた。畦道をしっかりつかまえて、耳をふさぎ口を大きく開けて伏せた。
地震のような地鳴りがして思わず体が飛び上がった。
最後は爆弾だった。本当にそれが最後だった。
畦道に座って家の方を見た。なにもかも真赤に燃えている。
西の方を見たら山のふところで、手柄の小学校の四角い柱という柱が炎を上げている。
なんとも言いようのない位綺麗だった。
絵の具の色では表し得ない程、美しい、神秘的な色であった。
今でもくっきりと目の中に残っている。
何も考えなかった。ずぶぬれになっていたが寒さも感じなかった。
ぼつぼつ夜明けに近かった。

未だにサイレンにビクッとし、火事を極度に怯える私。
この手記を綴りつつ、胸が締め付けられるような思いがします。
まだまだ心の傷は、いいえ、一生消えません。
恐ろしい事です・・・・・・・・・・・・・・。

 

焼け落ちた姫路駅

昭和20年7月5日、姫路空襲の夜の未明である。
私は古ぼけた自転車を押して御幸通を南へ、姫路駅を指して急いでいた。
前夜の焼夷弾爆撃で両側の家並みは全く焼け落ちて、未だに残り火と煙を立てていた。
南への突き当りが姫路駅であることは百も承知のことであるが、どうにもそれらしい物がない。
呆然・・・・全くただ呆然とした。
気がついて見ると、低い煙突が見える。それがレンガ造りである。
そうだ、これが駅長室のマントルピースの煙突である。
よくもこんなに完膚なきまでに焼け落ちたものだ。
東寄りに南へ延びた長い陸橋があったが、その南端付近の一部がまだくすぶっている。
屋根のないホーム、客車や貨車の焼けた残骸、夜が明け亘った頃に見たむごたらしい光景は筆舌に尽くし難い。

避難していた駅員達もだんだん焼け跡指して帰ってくる。声をかけても返事もしてくれない。
疲れきっているのであろう。
駅長と主席助役はしきりに何か話し合いながら焼跡の障害物を踏み越えて西へ東へ・・・。
復旧に頭を痛めているのであろう。
振返って日田の方を見渡すと、通ってきた御幸通の西も東も広々とした焼け野原であり、煙が所々に立ち上がっている。
西北に当る方面で土蔵のような建物が未だ焼けつつある。
池田屋醤油店だと思った。土煙を上げて焼け落ちると火勢は更に増してゆく。
消す者もなし、消す手段もない。
一夜のうちに、駅をはじめ市の中心部がこのように灰燼に帰した。
・・・・私は前夜、5〜6`も離れた自宅付近から山越えにこの焼夷弾爆撃を目撃したが、敵機は照明弾を使用したものらしく姫路の空は明るかった。
飛行機の姿は勿論見えるはずもなかったが、広げた傘のような格好で火の玉が落ち始めてから大きな爆発音が聞こえてきた。
それが西に東に何回も繰りかえされた。
敵機が飛び去った後、暗い姫路の夜空は、大火のため次第に赤く焼けていった。
私はその年の6月1日から姫路駅助役旅行統制官の職にあり、軍事輸送のため逼迫した旅客輸送を少しでも円滑にする為
旅行希望者に対して旅行目的の重要度に応じて乗車券発売の順序を決める仕事に当っていた。
その前日から宮崎統制官の当直であったが、同君の語るところによると
「当夜、防空幕を張り巡らせた蒸し風呂のような駅長室で空襲警報の発令を聞いた。間もなく敵機らしいのが淡路島南方を北上しつつ有りと報じて
そのまま放送が途絶えてしまった。神戸へ向かったか、或いは大阪か、無気味な何分かが経過した。
ハッとすると同時に、駅前付近の上空で、パパーン、パパーンと激しい爆発音がした。さあ来た、空襲だ。
取る物も取敢えず、待合室やホームの旅客を誘導して駅から南へ避難した。どうも最初の爆撃が姫路駅付近であったらしい」と。
太陽が昇ってからは街の焼跡にも時々人影が見えるようになった。
避難から帰り着いた人達であろう。
住み慣れた家、家財道具諸共、鳥有に帰した気の毒な人達、いとしい息子を、兄を弟を戦場に送り出している家庭も多数罹災されたことであろう。
勝つまでは、こんなになってもなお耐え抜かねばならない事情の下に私達は置かれていたのである。

その日の夕方近くであったと思う。
姫路の罹災者で、市内近郊に身を寄せる親戚知己等のない人々に対して身寄りのある先の最寄り駅までの無料チケットを交付することになり
我々統制官がその衝に当った。
関西一円はおろか、中部関東方面への申し出があったように思う。
姫路駅がこのような状態であったので、山陽本線直通の旅客の方々に大いに迷惑をかけることになった。
西は英賀保、東は御着駅で、列車は西へ東へ折返し運転をするので、この間は徒歩連絡である。
木炭車が走っていた戦時中のこととて、とてもバス連絡と言うわけに行かなかった。
列車が通る心配のない線路上を、また、ある人達は線路に近い道路を焼く9キロもある両駅間を荷物を携えての汗だくの徒歩である。
姫路駅付近で両方からの歩行者が行き違うことがあったが、お互いに声をかけ、手を振ってあたかも知己のように
「もうしばらく頑張れよ、あと何分ほど歩けばよいよ」等と励ましあって妙な賑わいを呈したものである。
なかには「大変ですね」と我々に労いの言葉をかけてくれる人達もいたが、被災の体験者だったかも知れぬ。
勿論、播但線、姫新線の列車も姫路駅まで入って来ない。
ともあれ、姫路駅では全力を挙げての復旧作業が続く。
保線・建築・電力・信号通信・検車それに駅・車掌区・機関区と業務機関が種々あって各々の分担は決められてはいるが、非常時なるが故に
一丸となって協力した結果漸く列車が通り始めたのはその翌日であったかと思う。
勿論、線路は差し当たりの支障物を取り除き、ホームは焼け屑を押しのけた程度である。
陸橋の階段等は厚板の一部を重ねて上から下へ順打ちしたもので足踏み部分が板の厚みだけしかない。
身体もろとも足を斜めに踏まないと滑り落ちる心配があった。
従って、南のホームへ列車が発着する毎にこの階段を上下する人が多いので、時には駅の係員がつききりのこともあった。
駅前広場が整理され、バラックのいたってお粗末な、駅舎とはいえないようなたて門が点々と出来上がった。
私達にも北向きの間口一間半、奥行き一間程のものがあてがわれ、従来の仕事を続けることになった。
また、駅前から御幸通への入口の西側に臨時警察官のバラック詰所が出来て、確か山本さんと呼ぶメガネの若い警官が常駐した。
旅行統制官の補助に、佐用から通勤していたおとなしい、これも山本さんという女子職員がいたが、縁あってこのメガネの警察官と結婚した。
仲介人は主席統制官の丸尾清大氏である。
それからは焼跡を眺めて暮らす毎日が過ぎ、町の所々にバラック建が見られるようになって8月15日を迎えたのである。
天皇陛下の玉音放送がある、とのことで、駅長以下幹部が焼け残った日本勧業銀行へ聞きに行った。
せっかくの放送は雑音にかき消されて、よく聞こえなかった。
多分、「ロシヤが参戦して満州へ侵入して来たので日本は四面楚歌である。なお一層奮励努力せよ」との放送に違いないと話しながら駅へ帰ってきた。
「大東亜戦争 終了す」
「○○陸相 自殺」 の報に愕然とする。
バラックの駅舎に貼られた新聞社の速報である。
体内の血液を抜き去られ、机にうつ伏せたい衝撃。
何分かの後、なにかホッとした気持ちにもなり、仕事が手につかなかった。
何日かが経過して、広畑のアメリカ兵俘虜が姫路の街まで来るようになった。
俘虜の一人が駅前を通りがかった将校の胸の辺りをぐっとつかんで帯剣を取り上げる。
将校は何等抵抗することなく、俘虜のなすがままになった。焼跡を背景に起こった光景である。
「耐え難気を耐え、忍び難きを忍ぶ」詔勅を無言で実行した将校は、汽車でどこかへ帰って行った。
一束の長剣を肩にした俘虜は焼けた町へ出て行った。

国鉄では、戦時中から詰襟に金筋をつけて軍隊まがいの階級を表示していた。
我々は横に2本、縦に1本だったと思う。
アメリカ兵が進駐して来る時、兵隊と間違えられてはとの心配から、全部それ等を取り外すよう指示があり、重要書類の殆どを焼棄したものである。
その翌年春に旅行統制官が廃止され、私はPTO勤務の助役として「ノー」を禁ぜられた進駐軍輸送の仕事に就くことになったのである。

 

姫路空襲余話

福知山工場で、姫路空襲のラジオ放送を聞いたのは午後8時頃だった。
それからでは姫路に帰られないので、夜の明けるのを待ちかねて福知山駅に出る。
会社で手配してもらった切符は和田山までしかなかったので、和田山駅で野里駅までの切符が入手できた時は嬉しかった。
小さな姫路市だから今宿も全滅したことだろう・・・・・・家はなくなっても仕方がない、家族のことが気になる。
両親のこと、妻のこと、2男1女のこと・・・・・・車窓の景色も、一緒に乗っている人のことも目に入らない。
汽車の進むのが(遅いので)イライラするばかりである。
香呂駅近くになると、なんとなくザワザワとした空気が感じられる。
荷車に家財を積んで行く人、荷物を少し持っている人が次々と続いている。
仁豊野を過ぎると、人の数はますます多くなる。砥堀、白国の街道を北へ歩く人はもう切れ目がない。
野里で下車、野里街道を南下する。
両側の家は変わりがなく、空襲の様相もない。
国道2号線に出て、初めて私は空襲の惨状に驚いた。目に見える限りが瓦礫の山になっていたのです。
所々に立っているのは、銀行と僅かに残された土蔵位である。
国道を歩くと空襲の余熱で顔が熱い、道の北側を歩くことにする。
船場に来て初めて今宿消防団の人に会った。
北今宿のことを聞くが、被害はなかったのに、近所の車崎も山畑新田も焼けているのが目に付く。
薬師山の西側にもたくさんの焼夷弾が落下したようで、山畑新田はそのために焼失してしまった。

 

戦 災

私は父の代から竪町に居住していて、戦争の少し前頃に家を新築したのでした。
7月3日のあの夜、空襲警報の発令と同時に、妻や長女をせきたてて八代の親戚へ逃げさせた。
私は駆け込んできた女婿の片島と屋上の物干しへ駆け上がって、町の様子を見まわしました。
もうその時には城南小学校や駅の方面、その向こうの海軍衣糧廠、その他の方向にも無気味な猛炎が上がっていました。
なおも敵機は頭の上を低くかすめるように飛びながら、次々と爆弾を落としていくので、見る見るうちに町全体が火の海になるように感じられました。
私は夢中で自転車に乗って飛び出しましたが、本町通から46部隊(現在の白鷺中学校などの位置)の方へ曲がる角に来た時
爆弾の落下音を耳にしたので、とっさに自転車を捨てて、その近くの防空壕にとび込みました。
暗黒の中、手探りで入口らしい所へ身をかがめて頭を差し入れると、なにかに突き当たった。
その途端、「ここはもう満員だっせ!」と、女の大声。
ハッと気がつくと、その大声婦人のモンペの大尻へ、私は力まかせに頭を押し付けていたのでした。
びっくり仰天、ほうほうの体でそこを退散、国道を西へひた走ったが、道沿いの家も町も猛火に包まれ
その熱風と火の粉の中をくぐりぬける時のすさまじい光景は、今考えてもとても言葉で表すことは出来ません。
以来、ここ(本町28番地)に28年、戦争の悪夢として私の頭に焼け付いています。

また、それからの生活が大変でした。
家が跡形もなく焼けてしまった私達は家族分散、八代や蒲田の親戚を頼っての居候生活でした。
約半年後の翌年の春、増位「梅麟館」の下の方に、古材を集めて仮住居を作り、家族がみんなそこに集まった時の嬉しさは忘れられません。

さてまた、当時のあの深刻な食糧難。
私は4`ほど先の青山坂下の荒地に芋蔓を差して、その後毎朝早朝に起きて、
自転車に石油の空き缶などを工夫してできるだけ多く取り付け灌水に通い続けた。
小さな芋でも収穫した時の感激や、また北今宿の農家へナスの分譲を乞い、畑でナスをもぎ取り、一杯にふくらんだリュックサックを娘に背負わせ
意気揚々と帰った時の嬉しさも、もはや遠い語り草になりました。
しかし、当時梅麟館に分駐していた進駐軍(米国兵)数名が、或る朝出し抜けにドヤドヤと我家に来て靴のまま上がり込み
押入れや棚など家中あらゆる所を乱暴にかき回した時には、敗戦国民の惨めさをつくづく肝に銘じたのでした。

 

東山焼きの燈籠が崩壊

想い起こせば、それは7月3日のあの大空襲の夜のことです。
警戒警報発令の声に慌てて飛び起き、取る物も取敢えずモンペを穿(は)き防空頭巾に身を固め、
当時は蚊帳を吊っていましたが、そのままにして裏庭にある防空壕へとんで入りました。
しばらくするとB29の大編隊が飛んでくる音がやかましくいたします。
間もなく私達の壕の中がパーッと花火のように明るくなりました。
焼夷弾が壕の真ん中に落ちてきたのでございました。
幸いなことに、家内中誰もケガなく、元気であったということはどんなにか嬉しいことでございましたでしょう。
すぐ、防空壕を飛び出して、鉄板で蓋をして土砂を被せて逃げ出しました。
「早く、早く」の声に見回しましたが人影もなく、庭園のあちこちから狐火のような火(焼夷弾)がチョロチョロと燃え始めていました。
無我夢中で西へ走るうちに船場川の土堤に来ておりました。
そこを北へ目指していると、目の前に材木町の今井酒造の酒蔵が恐ろしい勢いで燃え広がり、天を焦がさんばかりでございます。
川の水には油脂焼夷弾がたくさん流れております。
どこへ行ったらいいのか分かりませず困っていたところ、
「八代の方は大丈夫焼けていないらしい」との知らせで、親戚の田中認次様のお家にたどり着きました。
日頃はご無沙汰ばかりなのに親切に手厚くもてなされ、ただただ有り難く、人の情けに涙ばかりでございました。
その時の親切は今なお忘れられず、暖かい思い出となって続いております。
一夜明けてみますと、一帯の焼け野原となってしまっております。
3ヶ月ほどは、熱気でとても家の近所まで近づくことはできません。
あちらこちらにどぞうがポツポツ残っていました。
我家の家宝であった、東山焼きの石灯籠も姿だけは残っておりましたので安心しておりましたが、
次に来てみますと、壕の中のものは盗まれておりますし、東山焼きの燈篭は無残にも崩れ落ちておりました。
父の遺愛の品で、誠に残念なことでございました。
日本美術年鑑の陶器編に立派な一頁の写真が出ておりました陶器でした。
崩れ落ちたその陶器の破片は今なお大切に置いてありますが、致し方ございません。
書画骨董の大好きな父の遺愛品の数々を灰にしてしまいました。

 

焼跡に紅蓮の竜巻

坂元町の国道筋の歩道には、最近まで六角形と円形の焼夷弾の痕跡があった。
象形文字で刻まれた呪文のように、それは敗戦の年の夏の夜を呼び覚まさずにはいなかった。
夜中に警報のサイレンが鳴った。
当時3つだった妹が、脅えて火がついたように泣き出す。
しかし、日頃の経験からすれば、やがて解除になるものとタカをくくっていた。
「田舎町の姫路が空襲されるようなら、もう日本もおしまいだ」との父の説は、逆説的に一種の安心感になっていたのだった。

ところが、不意に電灯が消えて南の空が真赤に染まった。 これは只事ではない。
全員手探りで裏の防空壕に退避、一家八人が息を殺して耳を澄ましていた。
B29の爆音が空を覆うように押し寄せると、ザーッと豪雨のような焼夷弾の落下音が響いてくる。
数度目の音が聞こえたとき、バリッと耳をつんざくすさまじい音と同時に壕の蓋が消し飛んだ。瞬間、やられたと思った。
恐る恐る首を出してみると、裏座敷に点々と火がついて、鬼火のようにメラメラ燃えていた。
つるバラがバチバチと焦げている。
「逃げるなら今のうちだ」と父が叫んだ。
奥の深い家だったので、一気に戸口まで行けぬ。
イザと言う時に備えて、身の回り品を詰めたリュックが縁側に用意してあったが誰も見向きもしないで戸口に急ぐ。
私は何気なく、その中の一番大きいのを背負った。(これが戦後大いに役立ったのだ)
表の入口はくぐり戸になっていたが、既に火の手がまわって、周囲が焔で縁取られていた。
皆んな足が竦んでぐずぐずしていると、火が後ろから追ってくる。
母が赤ん坊の弟を背負い、妹と弟の手をしっかり握って最初に出た。
次に、二つ年上の兄、今度は私、リュックが重くて飛び出せない。焔が頬にヒリヒリ熱かった。
一瞬、サーカスで見た火の輪をくぐる哀れな犬の姿がうかんだ。最後に父が祖母の手を引いて出たようだった。
波状攻撃は続いている。ザーッと来ると軒下に隠れ、過ぎれば走る。
しかし、夢の中でのように足が思うように前に出ない。胸は動悸を打ち、のどはからからになって、気ばかり焦った。
煉瓦敷きの歩道に甲高い金属音を上げて焼夷弾が転げまわる。油脂がパッと飛び散って道路が燃え上がる。
家族はもう誰も見当たらぬ。

必死で国道を渡り、四六(よんろく)の入口まで来た。(今の城南小の地下道のある処)そこには、城の石垣に沿って人が入れる巾の溝があった。
とにかくその中に飛び込んで身を伏せた。
側には夏ふとんに頭から被った中年の痩せた女の人がかがんでいて
「私は結核で、寝とらないかんと言われとったんやけど、じっとしとったら焼き殺されてしまうさかい逃げて来たんや」と咳をした。
火になった兵舎の方から重症の兵士が担架で運び出されて来て「水、水」とうめいていた。
20メートルほどの国道を隔てた町並みも火に包まれた。
石垣の上の大きな楠にも火がついて、バチバチと音をたてて燃え出した。
大きな火の粉が降ってくる。熱気で熱い。心細くなった。
その時祖母が教えてくれた「南無阿弥陀仏」が自然に口をついて出た。

長い悪夢のような夜が明けた。焼跡に巨大な紅蓮の竜巻が起こった。
ゴオーッと地獄の底から響いてくるような無気味な音をたてて目の前を通り過ぎた。
全く夜が明けてから母達に再会できた。
母達の潜んでいた壕には数本の焼夷弾が突き刺さっていて、昨夜の恐ろしさを物語っていた。
車崎まで逃げていた父と祖母も無事だった。
しかし、焼け出されて無一物になった大家族にとって、その後の暮らしがどんなに大変だったかは今更語るまでもないことだろう。








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