私の空襲の記憶

昭和16年12月8日、太平洋戦争の始まった日、私は小学校1年生(当時は国民学校と改称されていた)だった。
戦争がだんだんと激しくなり、東京が空襲されたとか神戸の親戚が被災したとか、話はいろいろと聞かされてきたが
自分の身近に空襲の恐怖が迫ってきたのは小学校4年生の頃からだった。
昭和19年頃からだったか、防空頭巾を持ち血液型を書いた名札をつけていたことを覚えている。
その当時、日赤病院(当時、白いタイルの壁を黒く塗り、真ん中に赤十字の大きなマークが入っていた)近くの柿山伏町から城南国民学校へ通学していた。
登校して、朝礼、1、2時間目の授業があるうちに、確か3時間目位だっただろうか、警戒警報のサイレンが鳴るのが日課のようになっていた。
初めのうちは校庭内に作られた防空壕に避難していたが、いつの頃からか警報が出れば帰宅することになった。
家に帰り着くまでに空襲警報になり、姫路以外の地に敵機が向かえば解除になった。
大体は帰宅したら解除になっていることが多かった。
時折、アメリカの爆撃機B29が空高く飛んでいく姿を見かけることがあった。
青空に機影が真っ白に見え、白い飛行機雲を引いて飛ぶ姿を美しいとさえ思ったことがある。
私は姫路に生まれ姫路で育った。
昭和20年に川西航空機姫路工場の空襲と姫路市街地の空襲のことを子供時代の頭にも、恐ろしいことだと思ったことを記憶している。

川西航空機工場の爆撃
1945年(昭和20年)6月22日、警戒警報が出たので学校から帰宅の途中、いつものように空襲警報になった。
家へ帰ると母が、姫路が空襲されるのだから早く逃げようと、妹・弟との4人で家を出た。
祖母がどうしていたのか記憶にない。
父は川西航空機姫路工場へ勤めており、兄は姫路中学生で帰宅していない。
その頃の空襲警報時の避難場所であった名古山(当時、陸軍墓地と呼んでいた)へ向かった。
山上で兵隊に出会い、ここは危ないからと山を降ろされ、名古山の北側、辻井付近の小川の中へ避難した。
ちょうどその頃から、川西航空機工場に対する爆撃が始まり、頭上を西から東へ向うB29の編隊が黒々とした姿を見せ、
ザーッという音と共に爆弾が尾を引いて落ちていくのも見られた。
しばらくすると、ズズズンという地響きが約3キロメートル離れた私達の所まで響いてきた。
岩田黙念氏の「花田史誌」によると、7機編隊の連続7回の波状攻撃だったとのことであるが、私にはその爆撃が何十回と続いた気がした。
黒い煙が東の空いっぱいに広がる頃にやっと空襲は終わった様子で、家路についた。
「川西航空機がやられた」という町の人々の話で父の安否を気遣ったが、夕方父は元気な顔を見せて帰ってきた。
父から、会社が攻撃され始め、防空壕にいた人々と市川の河原の方へ逃れたこと、空襲後立ち上る煙のまわりに一機の戦闘機らしい
飛行機が飛来し、河原にいた人々が基本軍機だと思って手を振ったが、それは敵機であったらしいことなどの話を聞いた。
戦後、川西航空機工場の跡地へ遊びに行き、工場内や付近の町々にすり鉢状の大きな穴があり、この時の爆撃のすさまじさに驚いたしだいである。

姫路市街地の空襲

姫路の市街地が被災したのは7月3日の深夜から早朝にかけてであった。
この日か、その前日か、私は城南小学校の校庭に造った農園にイモ苗を植えたように記憶しているが、あるいはずっと以前の事柄と当日の
空襲の強い印象が結びついたのかもしれない。
その頃の空襲は、軍需工場や軍事施設だけでなく、無差別爆撃の様相を呈し、特に木造家屋の多い日本の各都市に対しては焼夷弾によって
火災を起こし、市街地を焼き払う方法をとっていた。
姫路がこの焼夷弾による攻撃を受けたのは3日の夜からであるが、その正確な時刻は分からない。寝床に入って寝付いた後のことであった。
灯火管制で電灯の傘に黒い布の被(おお)いを垂らし、その電気も消していた寝床に 「空襲警報だ、姫路が空襲されるようだ。」
という両親の声で、慌てて飛び起きたように思う。
防空頭巾や救急袋を持つことになっていたが、果たしてそれを持って出たかどうか今は記憶がない。
私の家族は当時、祖母と両親に兄と妹の8人であった。
空襲などで外へ逃れた場合、家族がちりぢりになることを予想して、その時は辻井の知り合いの家を集合場所としていた。
家を飛び出すのと殆ど同時に、照明弾だったのだろうか、一瞬閃光が走り、さっと辺り一面が明るくなった。
思わず 『伏せ!』 と叫んで、学校で教えられていた仕草で目と耳を指で押さえ、地面に伏してしまった。
すぐ暗くなったので、家からすぐ近くにある町の共同の防空壕へ逃げ込むと、既に多くの町の人が入っていた。
押し合いながら真っ暗の中で皆じっと座っていたが、「街が焼けだした」と言う声に、ここにいては危ないと判断した皆が
ワッと壕より出て逃げ始め、私達もそれにつられて岩端町から辻井の方へ向って走った。
この時私は家族とはぐれ兄と二人になり、人々の動きにつき従っていた。
岩端町の少年刑務所前まで来た時、壕へ入れと指示されて再度壕へ入った。
刑務所前の壕でしばらくの時間を過ごしたように思われるが、ゴーっという音と共に真赤な焔が目に入り、驚いてそこを逃げ出したように記憶している。
景福寺前町の一部、岩端町の一部が焼けたのはこの時のことだろう。
岩端町から辻井までどのように逃げたのか記憶にない。
自分の頭上に絶えず焼夷弾が落ちてくるように見え、焼夷弾の雨の中をくぐって走っているような気がした。
何時頃になったか分からないが、辻井で家族全員の(元気な)顔が揃った。
辻井から姫路の市街地の方を見ると、空から赤い尾を引くように落下する焼夷弾と赤々と燃え上がる市街が見えた。
辻井でも安心でないとのことで、全員で更に北へ向った。
書写への街道に沿って多くの人々が北へ北へと避難していた。
その街道に沿うようにB29が北へ向う姿が、機銃か照明か(分からないが)赤い火花で見られた。
横関付近まで逃れ、そこで夜明けを待った。
夜明けと共に街に向う人々が増え、私達も再び辻井まで戻った。
そこから、白く煙る市街地の中に姫路城の姿を認めた時、何かホッとした安堵感のようなものを感じた。
しかし、それらと共に、昨夜まで住んでいた自分の家が焼けてしまったに違いないと思い、寂しい気がした。
朝の早い時間であったが、まるで祭りのように多くの人が街に溢れていた。
岩端町の家々が残っており、柿山伏も焼け残っていた。
すぐ隣の景福寺前町は焼けていたのに、よく焼け残ったものだと話し合った。
家に帰りつくと、焼夷弾を束ねるための帯であったのか、金属製のベルトが数本落ちていた。
我家がアメリカ軍から受けた攻撃はこの金属ベルトだけだった。
その翌日5日の朝に、生野町から、鉱山に勤めている叔父が来姫し、祖母と私と弟妹は生野に疎開することになり、叔父と歩いて生野へ向った。
八代の元姫高(当時は単独高等小学校であった)の前の道路に焼夷弾の筒が深く突き刺さっているのと、
学校の板塀が黒く焼け焦げ、近くに消防車が1台焼けて放置されているのを見かけた。
砥堀付近でトラックに便乗させて貰い、夜になってやっと生野へ着いた。
姫路が空襲された時の記憶は、不確かなことや、子供の時の記憶といった点もあり、正確な記録とならないが私なりに覚えていることを書いた。
最後に、生野から姫路へ帰ったのは確か7月末だったが、駅から赤十字病院までが素通しのように見えたことを覚えている。
その間の市街地が全く焼けてしまっていたのである。

大木が屋根まで吹っ飛んだ

米軍はついに沖縄に上陸し、敵艦船が日本の近海に出没し、毎晩のように東京を初め各都市が空襲を受けるようになった。
当時私は50余才で、安室警防団新在家出屋敷の地区班長をしておりました。
米軍はついに沖縄に上陸し、敵艦船が日本近海に出没し、毎晩のように東京を初め各都市が空襲を受けるようになった。
当時私は50余才で、安室警防団新在家出屋敷の地区班長をしておりました。
食料の配給も乏しくなり、人々の不安は増すばかりの中で、当局は国民総決死と呼びかけ、私達も困苦に耐え、力を挙げて戦えば
最後の勝利は神国日本のものと、一縷の望みを託していたのでした。
婦人会まで動員され、竹槍訓練、救急訓練、防火訓練と、今から思えばアホらしいようなことをよくやったものでした。
私達の町内では、町内全員が避難できるような大きな壕を造っておりました。
しかし、空襲が激しくなるにつれて市内から非難してくる人たちに占領され、半分の人も入られない有様です。
警戒警報が出ると、市内の方から続々と、幼い子供を負い、手に荷物をもった婦人、子供、重い足を引きずった老人達が(避難してきて
退避壕に入られない人々が)列をなして道路端にまで、直に座り込んでいました。
夏でしたからまだ辛抱できたもので、これが冬であったなら病人・死人が出たと思います。
この国民苦難の時、一番憎らしかったことは、警報が出るや、軍人は馬に乗って避難民の中を堂々通り、
「俺達は昔の殿様のようだ、道の両側に避難民達がお辞儀している」などと暴言を吐く軍人がいたことです。
でも後で聞くと、当時兵士は一銭五厘のハガキ一枚で召集できたが、
馬は5、6百円出さないと買えないので一番に馬を避難させるように命じられていたとか・・・・・人間の値打ちも落とされた時代でした。
川西航空機製作所が爆撃された日、警戒警報が出ると私は町内の人々に、壕に退避するように命じ、田んぼの中道で空を見ておりました。
一機青い色の小型機が西南の方からお城の上空に来て2、3回廻り、東へ飛び去ると同時に、広畑方面から数機が千代田町の上空へ
黒煙を流して進んで来て、ちょうどタドン玉位の爆弾を20、30個程落とした。
この弾が私達のところに流れてくるのではないかとヒヤリとしましたが、ちょうど居合わせた陸軍中尉が
「お城の東くらいに落ちるから心配するな」と言われました。
そのとおり、たちまち京口、神屋町方面から空を焦がす黒煙が上がり、その凄まじさは生き地獄のようでした。
空襲が済んで、神屋町の友人の宗行製材所に見舞いに行くと、本宅は全焼し、工場も破損していました。
広い木材置場の中ほどに直径6b位の大きな穴が開き、長さ45メートル末口70センチもある大木が20bも離れた工場の屋根に吹き飛ばされて
落ちている様は、爆弾の威力の凄まじさを物語っていました。
当時県下の材木業者は一体となって国家に協力しており、私は山林係として労働者や山林伐採の監督に当っていました。
大野村の山へ行っていたときのこと、白浜方面から姫路方面にむけて小型飛行機が20〜30機飛んできました。
近くの人に木陰に避難するように勧め、私も木陰に退避した頭上を、50〜60b程の低空飛行で飛んでいったときは本当に生きた心地もしませんでした。
広峰方面へ行ったこの飛行機は、播但線の列車を襲撃し多数の死傷者を出したと聞きました。
終戦も間近の姫路大空襲の時、警戒警報が出ると、間もなく壕は避難の人で一杯になり、入りきれない町内の人々30〜40人を早く八丈岩山へ避難
するよう勧め、この人たちが無事に山に着くことを祈りました。
皆が山に着いた頃、当時は田植えの真っ最中でしたから夜でも田んぼは一面に真っ白に光っており、題爆音と共にこの中に落下した光景は
なんとも言いようの無いものでした。
一坪当たり30aぐらいのローソクを何百本も立てたような火の玉のきらめき。
幸い私の町では少ない被害で済みましたが、私の見たところでは一番最初姫路駅付近に真赤な火の手が上がり、やがて千代田町・
船場付近が燃え出し、同時に私達の近くの刑務所が全焼し、私の付近の家も4、5軒全焼しました。
私の家の2、3軒隣のタバコ屋の若い嫁さんは、一度壕に避難したが、当時は配給制でタバコが不自由で、草の葉っぱでタバコを作って吸っていた
時分ですから、タバコに万一のことがあっては大勢の人が困ると思って、タバコを取りにいえに戻った時に直撃弾を受け、亡くなられました。
また、花影町の人が避難して来て亡くなられましたが、花影町は被害がなかったということは、全く死にに来たようなものでした。
このような話は数限りがなく、私の友人の家では防空壕を家の中に作り、商品や家財を運び入れ、家内全員で避難している真上で家が焼け
付近一帯が火の海となり、一人残らず亡くなられたなど、いたるところで悲劇が起き、哀れな話を聞きました。
食料の欠乏で、田舎へ行って衣類と米を交換したり、野草やイモが常食になり、終戦後も長く続きました。
つくづく戦争は恐ろしい。
数百万の日本の老若男女の悲惨な死、二度とこのようなことがあってはならない。
終戦にあたって、当時の政府は戦争を放棄したのに、今の政府は軍備の拡大を計っています。
これは、また戦争を誘う、争いを誘導するタネだと思います。
相手が凶器を持つから自分も持つのではなく、「人の生命は全地球より重し」という先人の言葉をかみしめることが人類の平和と幸福に繋がると
私は深く信じます。
一銭五厘の人間よりも、5、6百円の馬の方が大切だという軍部の考え方に、今も烈しい憤りを感じます。

終戦時の思い出

あの開戦の日、米英への宣戦布告には、実を言うと何か不吉な予感がした。
というのは、昭和の初めに飾磨の三栄座で、ある陸軍中佐の時局公演を聴いた時、中々の雄弁で、その話の中に
「日本は戦うべきでない。もし戦えば囲碁で言うセキのようで、手を出した方が負けだ」と言ったことが頭に残っていたが
まさか負けるとは思っていなかった。

戦時中は城南警防団に出ていました。
戦況も苛烈になり、敵機の襲来等も本格的になってきたある日、私用で神戸の親戚へ行くとたまたま空襲警報がでて、
敵機が僅かだが襲来して、兵庫の町にバラバラと焼夷弾を落とした。
隣家のみんなが協力して、バケツリレーで消し止めたのを現実に見ていたので、敵弾とても大したことはないと思っていた。
警防団が隣保と共に、竹槍やバケツで練習うを重ねれば、必ず消せるとの自信で練習を重ねていたのであった。
ところが、その後、各都市が空襲で焼野が原になると知り、また阪神の現実を見て驚き、ただ悄然とするのみとなった。
敵は、初めには焼夷弾攻撃もたいした事はないと思わせて油断をさせて、後には本当の恐ろしさをまざまざと見せつけるのである。
そしてわが姫路もついに6月、川西航空機軍需工場を中心に爆撃で大被害を受け、死傷も多かった。

我家は急いで家具類の疎開を始めた。
この時、一番の元気者の長男に(対して)福岡に入営の命が(あったのだが)、北海道の旭川に変更されて、(長男は)入営した。
家には母と妻と10歳の次男、それに家内の母がいたが、その義母は足が悪くて歩くのは困難であった。
7月3日の夜中の空襲警報の間もなく、敵機がはや襲来した。
空を仰ぐと、駅裏に火の手が上がり、急に近くまで火が迫ってきた。
妻と母や子供を先に逃げさせ、足の悪い義母を防空壕入れて私が(家の?)番をすると言うと
「もし、壕に火が付いたら焼き殺されますから、家を見てくだされば私が母を負って逃げる」と言って連れて出た。
その後姿を見て、胸に熱いものを感じ、思わず手を合わせた。

我家は1100坪あった。住宅7軒、倉庫6棟、工場3棟、材木置場の空き地もあったがみんな逃げ出して誰もいない。
私一人で、買って間もない広い家を守っていた。
ここに落ちた弾は極めて少数で、バケツの水で消して行ったが一人では手が足りず、遂にみんな焼けてしまった。
せめて3、4人もいたら(家・建物が)助かったろうと、残念であった。
しかし、家族は西の青山の下に避難して無事であった。
この日、市内では相当の死者があり、近くの山電ガード下等で三つもの死体を見た。
我家も工場も灰になったが、家族がみな無事であったことを感謝すると共に、犠牲者へは衷心より冥福を祈ったものであった。

8月15日は食料(調達)の為郷里の三木にいたが、ラジオで終戦の詔勅を拝して、ただ驚き、悲しみ、遂に慟哭してしまった。
荷車を引いての帰り道では、悲しみが先にたち、涙がこみ上げて足も出ない。
これは生涯忘れられない。
9月には、北海道に入営していた長男も帰ってきて、家族みなが揃ったので安心した。
私の知人の今宿の人は、その長男が福岡に入隊後沖縄で戦死された。
その(人の)家は焼けなかったが、残った知人が私に会う度に言った。
「あんたは幸せや。家が焼けても子供が帰って結構や。私は家が残ってもたった一人の子は帰ってこない。いつまで待っても帰らない。
グチと笑われても忘れられん。」と泣く。
誠に気の毒で、慰める言葉もない。

私の長男は福岡へ入隊するはずが、北海道に廻されたので無事に帰っ(て来られ)た。
これは偏に(ひとえに)神様のおかげと喜んでいる。
欲を言うと、妻の兄が帰らず、長らく待ったが、後にフィリピンで戦死したと聞いた。
もしこれが帰っておれば、どんなに嬉しかっただろう。
長男の帰郷の喜びの反面、これだけがいつまでも暗い影となって残っているのである。

できるだけ原文どおりに掲載させていただいていますが、ちょっと補正させていただきました。
意味をよりよく伝える為でありご理解をお願いします。

少年の日の死体処理

通学の用意をしているところでした。
警報が出て、家族は二手に分かれて避難。
私は叔母と妹の三人で、現在の大蔵前の関電付近の船場川の橋の下の河原に行き、母と弟は町内の防空壕へ(行った)。
残された叔父は警防団へ出かけました。
その当時、私達は東呉服町に住んでいました。
雲の割れ目から初夏の朝日が眩しく目を射る。
最初に(敵機の機体を)見たのは、トンビかカラスが雲間を縫って飛んでいるのだろうと思った。
こんな警戒時になんとのんきなことだろうと思っていた矢先、再び機体が現れた。
黒い、得体の知れない物が投下され、大音響が起こった。
空中高く家屋が舞い上がるのが見え、キノコ型の黒煙がまたたく間に太陽を遮ってしまった。
二つ三つと続いて上がる黒煙と火柱。
その上を飛行機は旋回していた。
ラジオの情報だと、姫路東部に敵機が爆弾を投下したと言う。
自分のいえではあるまいかと、一瞬不安になった。
到底ダメだと思っていた、家族も家も無事であることは、すぐに分かって喜び合った。
姫路高等国民学校の1年生であった私は、(警報の)解除と共に急ぎ登校せよとの連絡で、地区ごとに学校へ行った。
遅い朝礼で、校長はじめ各組の教師から、今から、この度の被災地へ奉仕に行くから用意せよと命令された。

私達はさっそく現地に向った。
姫路橋陸橋に近づいたとき、橋の真ん中に大きな穴が開いており、播但線のレールは折れ曲がり、恐ろしさを目の当たりに見て足が竦んでしまった。
爆風のあおりで屋根瓦や窓ガラスがとんでしまった家が多かった。
現場に向おうとした消防自動車も無残な姿を見せていた。
国分寺町にあった元県立女学校横の川の中に、避難した人の死体が累々と重なり、川の流れをせき止めていた。
京口駅から城東小学校辺りまでの間に家らしい家はなかった。
所々に深さ数メートル、周囲20、30メートルに及ぶ爆弾の大穴が開いていた。
月のクレーターのように気味が悪かった。
こんな穴が、次は自分の家に落ちるのかと思えば、首も足も竦み(すくみ)、亀みたいな姿になってしまった。
私達は軍隊の指示に従っていた。
私の仕事はしたい処理隊員でした。
家々に築かれた防空壕の中で死んでいる人もあった。
そんな人々を掘り出してはリヤカーや大八車に積み、軍差し回しのトラックまで運ぶのです。
死んでまだ数時間しか経っていないのに、傷口には早や白いうじ虫が群がっていました。
その死体に手を触れるたびに、私達の手足にうじ虫が這い上がってくるのです。
私達の処理した数は明らかではありませんが、全て軍のマル秘になっていたのです。
照りつける太陽の元で、慣れぬ仕事は、私にとって人の倍も疲れました。
学校別、学年別、クラス別に、処理区域が違うのです。

軍のトラックで運ばれた死体は、広峰山麓にある城北練兵場(現在の競馬場公園)に積上げられました。
石やレンガで築かれた簡単な火葬場。
真ん中に鉄パイプが置かれ、その上に死体が安置された。
しばらくして、国民服の上に黒衣をまとった僧侶が現れ、読経が唱えられたと同時に、安置台の上の薪に火が点けられた。
私達は両手を合わせていたが、ジューという、肉の焼ける音、マッチの燃盛る音。
ただでさえ(臭い)積み重ねられた死体の異臭、その上、今は、焼かれている死体の臭いに思わず顔と鼻を手で押さえてしまいました。
焦土と化したあの町並みも今は脳裏の中になく、荼毘に付されていくこれらの人々の悲しみと無念な姿だけがいつまでも忘れられません。

明けても暮れても生き地獄の絵図を見せつけられているせいか、昼夜の食事さえロクに喉を通らなかった。
6月も末になって、夕暮れ時、近くの友人と共に、姫路の運命の易をたててみようと、当時よく流行ったコックリさんという神さんを呼んで占ってみた。
コックリさんの予言が当たったのか、敵方の予定がその日だったのか、やがて7月3日を迎えたのでした。

叔母、母、弟、妹の4人は、2,3日前に加西郡加茂村(現在の加西市)の祖母の里に疎開していた。
家財道具は二手に分けて、賀茂村と神崎郡香呂村(現在の香寺町)行重のお寺に預けておりました。
東呉服町の自宅には残りの半分がまだ置いてあった。
小物類は叔父と二人で自宅の防空壕の中へ運び込み、その上から土をかけて、後は運を天に任せた。
柱時計も疎開してしまったのか見当たらず、時間は分からない。
空襲警報に入った。
戸外を逃げてゆく人の声を聞くと、B29が25機位(飛んできた)とか・・・・・・・・。
突然、裏の離れが明るくなったと思うと、パアッと火の手が上がった。
隣の家も、道路を隔てた家も同時だった。
格子戸になった窓から、一人暮らしの老婆が助けを求めていたが、火の手が早くてどうすることも出来なかった。
おそらく焼死したことだろう。
私と叔父は別々に家を飛び出した。防空頭巾に水を入れ、ぬれねずみになって戸外に出た。

周囲は焔の地獄だった。
古二階町の旧姫路郵便局(現在の衣料会館)前に差し掛かったとき、不意に私の横の電柱際に照明弾が落ちてきた。
不幸中の幸い、電柱の反対側の煉瓦塀に当り、破片と共に白光した炎が四方に飛んだ。
家を出る時に、頭から水をかぶっていたが、のどは渇き、全身に火が付いたように熱かった。
そこに電柱があったために怪我もせずに済んだのだった。
一息ついて空を見上げたとたん、巨大な翼の影が目に映った。
背中に冷たい汗を感じた。 ここは彼らの攻撃地点だ。
私は這うようにして、元塩町の三叉路まで民家の焼跡伝いに逃げていった。
油を撒いて燃え拡がる油脂焼夷弾の煙を避け、炎をくぐってたどり着いたのは公会堂の玄関口であった。

一夜明けて私達は下寺町のお寺に寄り合うことになり、そこでオムスビとカンパンが支給され、やっと心にゆとりを持つことが出来た。
そうなると気になるのが、一足先に家を出た叔父の消息である。
私は集まっている人々に別れを告げ、家族のいる疎開先の賀茂村へと足を向けた。
歩いて香呂村まで来たところ、荷馬車の馬方さんが北条の近くまで行くから乗りなさいと言ってくれて、空襲の模様を話した。
私は横田部落の入口まで乗せてもらい、そこで別れて加茂村に入った。
薄汚れた雑嚢と水筒をかけた姿を見た村人達はおそらく哀れな落人に思えたことだろう。
世話になっている家の人や近所の人々が集まって来て、私の体験談をまじろぎもせずに聞いていた。
家に飼っていた鶏の一つがいや格子戸の中で助けを求めていた老婆の叫びがよみがえってくる。

消息不明だった叔父から便りが届き、飾磨郡置塩村(夢前町)に落ち着いているというのでホッとした。
その数日後、叔父は私達のいる所へ帰ってきた。
私は転校届けもせず、一時的に疎開先の国民学校へ編入した。
田舎の学校でも、毎日農産農産で田畑に追いやられ、農地拡大のため数キロ離れた飛行場の辺りまで出て行った。
農場へ向う途中で敵機の襲撃を受けたが、かろうじて野坪や溝に身を伏せて凶弾から免れた。
田畑に撃ち込まれた銃弾の音が無気味に聞こえた。
ある日、畑に水をやるために野井戸に水を汲みに来ていた。その時水に映ったのは青空ではなく敵機だった。
逃げる余裕もなかったので、慌てて、捨ててあった藁を頭に被った。
後から聞いたのだが、敵の目的は飛行場だった。
格納庫の一部が壊されて、10数人の死傷者が出たとのことだった。

7月の終わりの日曜日、高等科には日曜日もなく、その日は往復10キロの行軍であった。
行きは何事もなく活気に満ちていたが、帰路に軍歌を歌っていた時、突然横殴りに戦闘機が現れた。 先生は金切り声で避難を命じた。
私は雑木林へ走った。 或る者は馬小屋へ。 もう今度は助からまいと観念した。
一人の生徒が、都会の人間がいるからわし等も襲われるんじゃと悪口を言った。
先生はそれをきつく咎められた。
都会の生徒にも農村の生徒にも、それに相応しい銃後の守りがある。差別は許されない、共に守り抜け。
先生の一言でひとまず騒ぎは収まったかのように思えたが、学校の門を出ると沈黙の世界が続いた。
こうなると焼けた我家が恋しい。

数日後、私は先生のビンタを承知で二日ほどサボって焼跡に帰ってみた。
一面の焼け野原に残っているのは燃え残りの柱と、へし曲がった水道の蛇口だけで、そこから姫路駅舎が一目で見える有様だった。
城南練兵場(大手前公園)の東側一部に畑を作り、さつまいもの手入れをしていた。
兵隊達が銃も持たずに何をして国難にあたるのだろう。
あまりにも無力な姿に腹立たしかった。その時だった。
ある人から聞いた話によると、早ければ8月10日頃、日本軍は連合軍に降伏するだろう。
それは時間の問題だといった。
兵隊の姿を見た私は、咎めもせず聞き流していた。

戦時下の学校

敗戦の色濃い昭和20年頃は、教育界にも非常態勢が敷かれるようになった。
私の奉職校である姫路国民学校(高等科生徒のみの学校)でも運動場は全て掘り返されて、食料増産の為にかんしょ畑と化していた。
校舎の北半分は召集された軍隊の宿舎となり、生徒に対する正規の授業は殆ど行われず、生徒は市内にある軍需工場へ勤労動員学徒として
狩り出されるようになった。

生徒達が動員された派遣工場は、日本電球・山陽色素・日本フェルト工業・山陽皮革・日輪ゴム・海軍衣糧廠・国鉄姫路機関庫等で、
男子生徒はゲートル、女子はモンペズボン。いずれも防空頭巾を被り、肩には救急袋を掛けて出勤し、各工場で軍需品の増産に奉仕したのである。
国家危急存亡の時とはいえ、1日2合3勺で、生育盛りの青少年が飢えをしのぎながらペンの代わりにハンマーを握らなければならなかったのは
実に可哀想であった。
殊に(ことに)勤労動員中、姫路駅ホームで列車事故のため死亡した稲田君や日本フェルト工場で作業中に、誤って片腕を切断した三浦君は
全く気の毒な事故であった。

さて、川西航空機工場に空襲のあった6月22日当日は、約100名近い我が校の生徒が、隣接工場である山陽皮革に学徒として働いていた。
その日は雲ひとつ無い晴天で、工場付近の田は麦刈りを終え、広々とした空間には初夏の太陽がさんさんとして輝いていた。
当日の引率教師(高橋、矢内)の語るところによると、午前11時頃、突如空襲警報のサイレンが鳴った。
またどこかの工場が今日もやられるのかと思いながら、生徒を定められた工場内防空壕に誘導した。
その後の報道により、敵機が姫路方面に飛来するというので、生徒を集め、2キロ程東方にある高木地区の山中に避難したのである。

間もなく、南方上空より銀翼を連ねてB29が5、6機飛来し、工場の上空を旋回し始めた。
そして、豆粒大の黒点の爆弾が投下され、それが見る見るうちに拡大して、ザアーっという響きを立てながら落下し、ドカンドカンと大地を揺り動かした。
爆弾が工場に命中し始めたのである。
B29の波状爆撃は約1時間余りも続いたので、警報が解除され、生徒を引率して工場に帰ったのは12時半頃だった。
勿論工場は鉄筋の外壁だけを残して全焼し、黒煙は空を覆いその変貌の甚だしさにただ茫然自失するのみだった。
東を流れる市川の河原には、爆撃で出来た直径約10bほどの逆円錐型の穴が無数に出来ていた。
爆風で死亡した者、下半身の吹き飛んだ者等が散乱し、この人たちの血潮は飛散して河原の意思を赤く染め、中には唇を動かし、
断末魔に何かを訴えようとする者もあって、全く地獄絵そのものだったそうである。

以上は、引率教師の体験談である。
当日私は、学校出勤の日だったが、隣保関係の人で、山陽皮革の研究部長だった片岡氏を探すため、爆撃直後の工場を訪ねたのである。
爆撃目標の川西航空機工場はもちろんのこと、付近の竹の門、城東町、大日河原の民家は爆風で破壊され、或いは焼失し、路上には
老婆の死体が横たわり、避難した人々は家財道具と共に付近の田圃にたむろしていた。
片岡氏は爆死されたと聞いたので、死体収容所を訪ねることにした。
死者は、付近の寺院に分散して収容されていたが荒莚(あらむしろ)の上に安置された死体の多くは極度に損傷していた。
坂田町の寺院で片岡氏を発見したのは、鬼気迫る宵闇の頃だった。
当時は氏名の判明せぬまま荼毘に(だびに)付された人々が多かったということである。

≪7月3日の空襲≫

国民学校の教師は、空襲警報が出ると直ちに勤務校に出動し、学校を防衛することになっていた。
7月3日の夜、私は警報のサイレンと共に、八代深田にある学校に向かった。
その間20〜30分だったと思うが、南方より無気味な爆音を聞くと同時に暗い夜空を照らして照明弾が投下され、
間髪を入れず、上空を旋回するらしい敵機から次々と焼夷弾が投下され始めた。
私は防空規定どおり、宿直員の林先生と共に運動場南隅の防空壕の中の御真影の守護に当たった。
当時は、御真影と教育勅語は校内防空壕に奉安し、校舎が危険に瀕した場合は、第二方奉遷所に移動させることになっていた。
学校の第二奉遷所は、北2`にある安室小学校となっていたのである。
長時間にわたる照明弾と焼夷弾攻撃で、市中はいたるところに火災が発生し、全市は白日の如く明るく照らし出された。
川西航空機工場の爆撃で恐れをなしていた市民は、ほとんどが家を離れ、付近の山中や広場の防空壕に避難していた。

学校には焼夷弾が無数に落下したが、駐屯の軍隊の消火活動により焼失を免(まぬが)れた。
この空爆の為、病床に横たわる妻に心を引かれながら学校警備に馳せつけた為に、戦果の中に愛妻を焼死させてしまった同僚の
神田先生の心中を察すると、今なお胸が痛む。

悪夢のような一夜が明けた7月4日の未明は、硝煙が全市に立ち込め、悪臭が鼻を突く有様で、播磨平野に殷賑(いんしん)を極めた
歴史ある城下町も劫火(ごうか)により一夜のうちに焼け野原に変わってしまったのである。
国鉄の貨物駅ホームでは砲弾らしい爆発物が、その後2、3日も昼夜間断なく無気味な炸裂音を立てていたのが記憶に新しい。

終戦後の手柄山中央公園には、全国戦災都市空爆犠牲者の慰霊塔が建立された。
私は当時の姫路市教育課の委嘱により、塔に刻む慰霊の碑文を起草する委員の一人として参加したのである。
私はこの寄稿に当り、川西航空機工場の爆撃や、7月3日の夜の空襲の悲劇の無惨さを想起しながら、やむなき情勢下とは言え
東洋平和とか滅私奉公の美名を高調して、あたら前途ある青少年を戦場に駆り立てた教師の行為を深く反省し、自責の念に耐えながら
今後は人類の生存する限り、このような罪なき民を殺傷する戦争は絶対に起こしてはならぬと、固く心に誓った次第である。

数千人が雪崩をうって避難

大東亜戦争は日を追って激しさを加え、敵機は日本各地の上空に来襲して偵察を重ね、次々に主要都市を空襲し、あらゆる施設を破壊し、
市街は廃墟と化していった。
南方の島では10数隻の輸送船団が一夜のうちに海底に姿を消した。
また、ある沖では軍艦が魚雷に撃沈された。
もう護衛してくれる飛行機も軍艦もなく、南方行きは危険だ。
大本営の発表する敵の損害と、当方の損害を加えて2で割っても日本の分が悪いようだと・・・・・・・・・。
南方戦線の不利な戦況を、輸送船の無線通信士を弟に持つ同僚から聞いていた。
表立って言えた事ではないが、いずれは敗戦の末、軍部の言う本土決戦に追い込まれるのは必至で、あとは時間の問題だと覚悟を決めていた。
当時、民間防空の一切はその地域の警察署長の責任で運営されていました。
本部として防空司令室を置き、阪神間の主要都市や明石、姫路に巡査部長を長とする防空指揮所が新設されたのは昭和20年1月だった。

私は国道2号線沿いの御幸通り巡査派出所に設けられた城巽(じょうそん)防空指令所長として勤務することになった。
指揮所長というのは署長直属で、指揮所と決められた派出所に常勤し、本部からの指令に基づいて防空業務を指揮するかたわら、
警防分団長、町内会長らとも話し合って、疎開の指揮から退避場所の選定、点検、またある時は管内の住民からの相談、苦情や希望を聞くなどして
常に住民と面識を深め、いざ空襲というときに備えて、実情に応じた処置が出来るように努めねばならなかった。
平素は一人の部下も無い所長でも、警報が発令されるとたちまち区域内の派出所勤務の巡査全員と警防分団の伝令数人を掌握して、指揮指令を
執ることになるのだ。

現在の若い人には想像もつかないだろうが、その当時の姫路駅前は50b道路などなく、御幸通がメインストリートで、東の小溝筋は綿町で行き止まり。
西には現在もある佃道が線路沿いにあって、西北斜めに御幸通より少し広い道があった。
しかしこの道も、5、60b先の山電の踏切までで、踏切を渡り北に折れると中の門へ通り抜けられる。
山電終点駅は御幸通西側に面しており、この駅の北側から綿町まで細い道路があったが、
東西南北に通ずる街路で真っ直ぐに通り抜けられる道は殆どなく、必ず鍵の手に曲がらないと行けない迷路になっていた。
そうでなくても分かりにくい市街を、警報が発せられる度に、列車や電車から下車した塵不案内の旅行者達が、城南練兵場目指してどっと殺到するのだから、誘導するだけで精一杯で、駅前や北条口の派出所と連絡を取り合うことは勿論、状況を視察するなど思いもよらない事だった。

B29の来襲の度にこの状態を繰返すのだが、その間にも10数機の敵艦載機が、青野ヶ原の海軍航空訓練場に銃撃を加えたり、播但線の列車が
銃撃され、負傷者が出るなど、小規模な空襲もいく度かあった。
広畑にあるという高射砲陣地は、敵機の帰路の真下あたりにあるのだが、砲弾はいつも敵機の遥か下の方で炸裂するのを望見して歯がゆく思った。

こうした緊張の中にも、夜間警報解除で、ゾロゾロと駅や家路をたどる退避者を見送り、姫路はどうやら助かったと、指揮所に集まった伝令や
近所の人たちとホッと安堵の吐息を漏らすのであった。
しかしそれも束の間、国道から東の空が明るく火災だと分かる。
情報は入らないが、明石辺りだろうか、いや西宮だ。
南だから堺ではないか・・・・・口々に不安な表情で被災地を想像して話し合う。
そんな時、「何月何日にはどこを空爆する・・・・・・・・早く降伏せよ」というビラを拾った者があるそうだ、と言い出す者もある。
遅かれ早かれ姫路も空爆されるだろう・・・・・・・という不安がどの顔にも隠せずにいる。

6月22日

平常どおり、指揮所で今日一日の計画を練る。
一部の住民の間に
「このところ、訓練だ演習だと仕事をすることもできない。バケツリレーくらいでは初期消火はできても、焼夷弾の洗礼でも受けようものなら、
これだけ家が密集した市街地で、たとえ1、2戸でも焼け残れるだろうか。他の町の話を聞くと、身一つで逃げるのが精一杯だったという。
無駄なあがきは止めて欲しい」
と、警防本部のやり方に疑念を抱く者もあるようだ。
もっと訓練を重ねて欲しいという者もあるし、難しいものだと考え込む。

午前10時50分、警戒警報に続いて空襲警報が発令された。
まさか姫路ではあるまいが、昼日中だから爆弾だろう。どこが目標だろう。
駅の構内から吐き出された旅行者が城南練兵場になだれ込んできた。
ところが、練兵場は食料増産に協力してか、四六部隊ではその殆どを畑にして甘藷(かんしょ・じゃがいも)を植えてある。
その間を通り抜けられるだけの道はあるが、一般人は取り抜ける以外は立ち入り禁止なのだ。
唯一ヶ所の退避場所として逃げ込む群集を、畑を荒らすな!と追い払う。
何度部隊に交渉しても聞き入れてくれない。
しかも、警報発令と同時に馬匹を堤防際の榎の老樹につなぎ、衛兵の歩哨だけでなく剣を持った見張りにまで立たせる。
駅方面から幼児を背負い、重い荷物を提げた女性、手をつないだ老夫婦などが息を切らせらがら練兵場めざして、
急いでくるが入れてもらえず、大半が土堤際に身を潜めている。

爆音と共に、飾磨沖上空と思われる白雲の間に白い機体を輝かせたB29が10機ばかり現れた。
いつもならせいぜい2、3機だけなのに、今日は編隊でやってきた。
タバコの輪のような煙を期待の下の方に残して北に向けて飛び去るかと思う瞬間、ザザーッとにわか雨の振るような音が真正面に向ってくる。
シュルシュル・・・・・・・加速度をつけた黒い物体は、近づくにつれて次第に東へ外れ、ものすごい音をたてながら斜めに落下していく。

その間にも、落ち着きなくウロウロする退避者に、身を伏せてなるべく土堤に転がっているようにっと注意してまわる。
イモ畑の中に両手で耳を覆って伏せる者、家は近いが足が竦んで(すくんで)歩けないとしゃがみこんだままの者もある。
アッ、お城だ!  お城を爆撃するぞ!!
あちこちで声があがる。
ドカン、ドカン・・・・・腹にこたえる大音響と共に、総社の森を包んだかと思うような黒煙が木立の向こうにムクムクとあがる。
アッ、総社だ。 総社がやられた! いや木が残っている。
まだ向こうだ、川西航空機だ・・・・・・・・・・・・!!
生きた心地もなく、ここを最後の地と覚悟していた連中の中から、命拾いをした安心感からか、興奮して怒鳴るよう口走る。
誰も顔色は蒼白で、血の気が引いたままだ。
畑には先ほどの警戒兵の姿も見当たらない。

続いて第二機団の数機が目に付く。
第一機団の数機は「俺達は何も知らんぞ」と言いたげに広峰山頂に一度機影を隠したが、広畑上空を南に向けて悠々と帰っていく。
その時、姫路警防分団の常備消防屯所(公会堂西手、現在の全但バス待合所:これもありません)からサイレンを響かせて一台の消防自動車が
川西航空機工場に向って出動していった。
第三、第四機団のB29が来襲した。
不安におののく群集を力づけてまわる内にも、被爆現場の状況が入る。
爆撃目標は天神町の川西航空機姫路製作所で、姫路陸橋から花田村高木にかけて撃破され、川西工場と山陽皮革は跡形もなく破壊されてしまい
相当数の死傷者があるもようだ。
消火に当たっていた消防車が、京口派出所のそばの京口川沿いで5トン爆弾の至近弾を受けて9人全員が殉職したいう悲報も知らされた。

警報解除後、被災現場付近を視察した帰りに、殉職した消防団員が安置されている坂田町の正法寺に立ち寄ったが、顔見知りだった団員も
焼け残りの松丸太のように顔も手足も黒こげになり、何処が誰だか見分けもつかない無惨な姿に変り果てており、ただ言葉もなく立ち尽くしてしまった。

川西航空機工場から4,5百bしか離れていない自宅に帰ってみると、妻は生後70日の赤ん坊を背負い、布団を被って二人の子供の手を引き、
飛んで来る鉄片を避けながら、田圃の岸沿いに逃げ、幸いケガもなかった。
家はといえば、壁は柱の間ごとに落ち、屋根瓦は両端をそのまま残して、他は中央一ヶ所に蓑で寄せたように重なり、天井裏には無数の鉄片が
屋根の野路板突き抜けて散乱しており、まるで工事中の家屋のようになっていた。
この爆撃の被害の詳しいことは知らされなかったが、死者200名に及ぶと聞いた。
航空機工場は爆撃されたが、軍都といわれる姫路の市街も軍の施設もまだ無傷だから、必ず空襲があるものと憶測される。
家族を郷里に疎開させ、一人身軽になって勤務するうちに、自炊の粗食からか過労の為か、黄疸(おうだん)になった。
39度から40度の熱が続き、酒か船にでも酔っているような状態で、足元もふらつくし、何を考え何をしているのかさえ分からないようになった。
警報発令の合間を見て、網干の吉備まで行き、大津茂川のシジミ貝を獲ろうと川に入ったが、7月の炎天下であるに寒くて仕方がない。
側(そば)の子供が獲った貝を、一握り10銭でわけてもらい、ミソも醤油もない水炊きの汁を3、4回に分けて吸った結果、
三日目には、汗を拭いたタオルが黄色になり高熱でふらふらしていたのが嘘のようにケロリと直ったということもあった。

7月3日

家族を疎開させた後、ガランとした家で丸寝していると、夜中の12時頃、警戒警報が出たのに気付かないのに、突然空襲警報発令のサイレンが
長く尾を引いているのに飛び起きた。
灯火管制中なので、2号線を通る人も無い静まり返った街を自転車でとばすうちに、姫路陸橋の西詰めの日ノ本学園辺りに差し掛かった時
突然、輝くように明るい火花が駅前方面の上空で光った。
目が眩んで(くらんで)、自転車ごと左手の板塀に倒れた。
照明弾だ!! 姫路がやられる!! と頭に閃く。
今まで、死んだように様子を伺っていたらしい家々から急に騒々しい声があがり、灯火管制の街が明るくなった感じだ。(ちょっと意味不明?

姫路警察署は炎に包まれ、屋上では数人の署員が必死に焼夷弾の火を踏み消している。
4、50メートル西の平松産婦人科病院の周りにも火の手が上がって、ここでも数人の影が炎の中に黒く浮き上がって見える。
国道筋にはまだ火の気は見えないが、駅前方面は火災が発生しているのか、明るい。
どうにか綿町の指揮所までたどり着く。
駅前方面からと、付近の町から練兵場めがけてなだれ込む群衆を、声をからして誘導する。
駅前は炎に包まれて真昼のようになっており、
駅前派出所からは「もう手がつけられない、駅の防火に当たる」という報告を最後に連絡が途絶えた。

北条靴の派出所からは、北条・阿保・機関庫の線路などに向けて退避する人の誘導に忙殺されているのだろう、全く連絡がない。
隣接の城南指揮所管内の竪町筋、中の門筋も火に包まれているようだ。
船場川筋にも火の手が上がっている。
いつもなら警報発令と同時に、一番に顔を見せる城巽警防分団長の江原医師の姿も見当たらない。
平素は腰をかける場所もない程詰め掛ける消防分団の伝令も二人だけで、派出所勤務の巡査が4人いるだけだ。
この人数では、避難してくる人々の誘導や避難先の伝言を聞くだけで手一杯、とても消火や伝令に出る余裕などない。
それどころか、火災の音と人の声に、敵機の来襲さえ気付かない。
声にならない声がウワーンとどよめいている感じで、将に(まさに)「この世の地獄」さながらの混乱だ。

駅前からの火の手は、もう西紺屋町辺りまで延びてきた。
「空襲になったら店を放って逃げるから、薬でもなんでも勝手に持ち出しちょうだい。私も助かるし、皆にも使ってもらえばいいから・・・・」
平素から聞いていた、中二階町の西薬局の主人の言葉がふと頭に浮かんだ。

敵機が上空を通過する度に市街地のあちこちに火の手が上がるが、地上の混乱に気をとられて、とても空にまで注意がまわらない。
午前1時を過ぎた頃、焼け切れたのか、本部との電話線も不通になった。
城南指揮所の達賀部長から「指揮所は焼失したので、国道沿いの丸常自動車運送店に臨時指揮所を移す」と連絡してきた。
旧市内の大半は火の海だ。
報告せずとも知れているだろうが、警防団の伝令を使って本部へ連絡する。
 管内の南部一帯は火災の為に焼失し、火災は逐次北へ延焼中。
 住民は退避して、現在のところ死傷者はない模様。
 消火活動は、火勢強く手の施しようがない。
 城南練兵場に避難者の数、無慮(むりょ)5、6千人。
 傷病者なく、退避誘導に全力を尽くし、平穏なり。指揮所勤務の7名、健在。

駅前から御幸通両側の町並みを伝ってくる炎は、人が走るより速い勢いで北に向って舐めてくる。
中呉服町の神戸銀行は洋館だから大丈夫だろうと振り向くと、ちょうど真向かいの岡本万年筆店の前を、手をつないで走ってくる人影が浮かび上がる。
そうだ、岡本さんには手が離せない病気のおじいさんが二階に寝ている。
万一の時は頼むと言われていた。
しかし、あれほど注意していたのに今まで疎開させないでいたのだろうか・・・・・・・
煙に包まれた地面を透かしてみると、中二階町の三七十庵前辺りまで来た人影が、どうやら長々と伸びた黒い物を置き去りにして逃げてくる様子だ。
その後ろからも、燃え盛る両側の炎と競争するように数人の男が走ってくるが足を止める者はない。
警防団員二人を励ましながら駆けつけ、抱えあげて運ぶ。
炎の火照りで頬も手もヒリヒリ焼けつくようだ。
安全な場所も無いので、とりあえず指揮所横の木下に、ありあわせのゴザを敷いて老人を横たえる。
医者も薬もなく、なんともしてやれないがときどきのぞいて容態をみていたが、朝方になって居合わせた人に尋ねると
「息を引き取ったので他の場所に移させた」という。

私は少年の頃、東京の吉原病院裏手の250戸を焼いた大火に行き合わせ、火災の町を逃げ回ったことがある。
その時に、軒下を伝ってくる炎のものすごさを体験したことがあるが、焼夷弾であちこちに発生する火災からの延焼はあの大火の比どころではない。
岡本のおじいさんを呑み込んだ火は、もう綿町を舐め尽くして、角の平井タバコ店辺りの数戸の屋根を煙で包んでいる。

四六部隊の兵舎、総社から北の師団司令部など、軍部の施設は集中攻撃を受けて炎上している。
空爆が繰返されてはいるが焼夷爆弾が落下しないのをみると、目標にはしていないようだが、一棟二棟と焼け落ちていく。
姫路城の西の丸とその石垣の松に火が付いた。
暫くして、誰が消したのか自然に消えたのか、一時はどうなることかと危ぶんだが消火し、先ずは無事でよかったと安心する。
城南練兵場にはいつもの歩哨のすがたさえ見えず、兵舎が焔に包まれているというのに人影さえ見当たらない。
家を焼かれた内町(うちまち)方面の住民が続々と練兵場に集まり、一時は立っている余地もないほどだった。
はぐれた肉親の名を呼びながら右往左往する者、水を求める者、火傷や負傷した者もいる。
水道は止まっているので、汲み置場の水はすぐになくなった。
救急箱は開放して、勝手に使ってもらう。 十人足らずの人数ではどうしようもないのだ。
派出所裏手の土塁の雑草が燃え始め、日除けのシートに火が付く。
交番を焼いては大変と、一斉にサーベルを抜いて草をなぎ倒してどうやら火は消し止めたが、とんだ草薙の剣だ。
おそらくこの若い4人の警官は、在職中に抜剣して実際に職務を遂行することはなかったであろう。

国道の北側の土塁際に、丸常運送店から公会堂までの間の家屋が残っている他、見渡す限り紅蓮の焔に包まれた街で、棟は落ち、屋根瓦のある家の見当たらない中に、平井タバコ店横の土蔵だけが、煙に包まれながらも日本の昔の建築技術はこんなもんだといわんばかりに厳然と大屋根を残している。その土塁にどう迷って上がったのか、逃げ場を失った犬が一匹、キャンキャンとしきりに悲鳴をあげている。
土蔵だけでも消火できないものかと近所の人たちに協力を求めてはみたが、ポンプもなく、第一、水道が止まってしまっている上周囲の火勢からして
とても近寄れない。
犬だけでも助けてやりたいと、居合わせた者は口々に言うが、梯子も竹竿もなく、ただ見守るばかりだった。
指揮所西隣の飲食店も焼け、土堤際の家も東側から延焼してくる。
町内の一軒でも残せ! 自分の家だ他人の家だと区別している場合じゃないと励まし、隣組に協力を呼びかけ、消火に当たらせ、
やっと、数軒を焼失しただけで食い止めることができた。

執拗な波状攻撃は続けられ、いつ止むとも知れない。
四六部隊と師団司令部周辺の軍関係施設は焼失したにもかかわらず、止どめを刺すかのように焼夷弾を落としていく。
幸い、白鷺城と城南練兵場にはぜんぜんと言ってもいいほど落下してこない。
この上、練兵場にでも焼夷弾を見舞われたらどんな惨状が展開されるか想像するだけでゾットする。
数千人の退避者も震えながらも、内心ホッとしているのか、案外平静で、ボール紙や板切れを拾って落ち着き先を書きつけ、
木の枝や畑の縁の小石に挟んで立てたりしている者も見受けられる。

子供を背負った若い主婦が、子供が足に火傷をしているというので、残り少なくなっっている火傷薬を子供のむきだしにした足に塗っていると、
城巽、城南の二指揮所を監督する小隊長の鳥谷警部補も来合わせ、(退避誘導や力づけてまわっているらしいが)
止むことのない空襲の為退避壕に入っていて、私にも入れと勧める。
入ってはみたものの、街は火の海となり、家を焼かれて今から住む家もない被災者が、敵機来襲の度に兢々(きょうきょう)として立ちつくしている
のを見ては、自分だけ安全な場所に引っ込んではいられない。

ここ半年くらいの間に行われた建物の強制間引き疎開では、警察への憤りの恨み言も聞かれた。
家財疎開には運搬車両の斡旋が遅く、数が少ないという苦情も聞かされることもあった。
訓練演習に退避壕築造やら灯火管制などで随分強制し、迷惑もかけた。
この惨事を少しでも軽微に済ませたいと一緒になって努力してきた管内住民の一部はここで野ざらしでいるのだが、何もしてあげられない。
せめて一緒に居て、見守っていたい。 傷病者がでるかもしれない。
連絡事項があるかもしれない・・・・・・・と出ようとするが、今出ては危ないからと、小隊長が後ろから羽交い絞めにして出してくれない。

一般人が入りかけると、「君達の入る場所じゃない」と誰かが制止する声が聞こえる。
入れるだけ入れてあげればいいのに、しまいには、やっと女や老人数人は入れてもらえたが、
私には、何故一般人を退避壕へ入れてはならないのか、どうにも納得のいかないことだった。
長いようでもあり短いようでもあった、無我夢中の5時間の空襲も、白々と夜が明ける頃戦果を身定めるように飛来したB29を最後に警報解除となった。
警防分団の伝令の二人は、警報発令から解除まで、家を忘れ家族のことも口に出さず、実によく協力してくれたのだが
残念なことに氏名を記憶していない。
3時を過ぎた頃、とうとう焼けてしまったと言いながらも、自分の任務を果たすべく駆けつけた伝令も一人いた。
その頃江原分団長も、出勤途中だが見捨てていく訳にもいかず遅れた、と姿を見せた。

夜の明けるのを待って、早速管内を見回る。
練兵場入口から姫路駅までの御幸通は、両側から倒れた黒焦げになった焼け残りの材木、電柱などの間を電線や針金が引っ張りあっている。
わずかに、煉瓦敷きの街路が所々に見えているが、足の裏は焼けるように熱い。
くすぶりの中に火の手が上がり、壁や材木が崩れ落ち、土煙が上がる。
家具や畳の焦げる煙とで窒息しそうだ。

高射砲のように、穴が上を向いた鼻は真っ黒に煤けて、マスクをかけていても息苦しい。
駅から城巽国民学校へと辿る。
ある筈だと思った道も塞がり、その下には置き火のようにチラチラ火が起きていて、まだ新しい靴の底に焼け穴が出来たらしく熱くて辛抱できない。
見渡すと、船場方面から市之郷辺りまで灰になってしまい、鉄筋煉瓦造りの洋館がわずかに点在するだけの焼け野原である。
時折パッと火の手が上がる所があるが、一面にくすぶり続ける煙が白く黒く、風になびいているだけだ。

当時の被害状況は上司に報告したように思うが、全く記憶に残っていない。
管内住民の多くは阿保、東山、兼田、または御立、飾西方面に逃れた。
鉄道の機関区構内の線路で死傷者もあった模様だが、管轄区域内では死者一名、負傷者数名であったと記憶している。
悪夢のような一夜、無我夢中の一夜は、生ある限り脳裏に刻みつけられて、忘れることはないだろう・・・・・・・・・。

 

 

 





 












SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送