防空壕に直撃弾

当時の私は市内安田で鋳造業を営み軍需品の生産に励む傍ら、在郷軍人分会長・町内会長等の要職を務め、
戦時態勢下にありながら公私両面において第一線で活躍していたものです。
戦争もだんだん深刻になり、南方の諸島も次々と占領され、内地の都市の爆撃も次第に激しくなり、敗戦の色も濃くなってきた。
我が町、姫路に於いても昭和20年6月22日に川西航空機工場が爆撃されました。
市街地の爆撃も間近に迫ってくると、市民は急に家財の疎開や防空壕の構築に慌ただしくなってきた。
我家に於いても、妻や老母は、家財の疎開に一生懸命であった。
私は、公私の雑務に追われながら、町内の防空壕の構築の指導や自家用防空壕造りに励んでいた。
老父は、妻や母が疎開家財の荷造りをするのを見て
「このような町外れで空襲などあるものか。荷物を出して家を空っぽにしてしまってどうするんだ。」と叱り、一家の中でもそれぞれ
意見が違っていたが、衣類は神崎郡瀬加と飾磨郡菅野村に疎開させた。
父の好きであった書画骨董・美術品の家宝は何一つ疎開させず、灰燼に帰してしまった。

大阪の妹の一家は、大阪難波大蔵跡町で第一回目の戦災を受け、二回目は疎開先の阪急沿線、豊中の曽根で戦災に遭った。
その際、主人が直撃弾を受けて即死し、次女は破片を受けて重傷を負い、豊中の刀根山病院に入院した。
大阪付近は度々の空襲で危険なので姫路に疎開したいと言ってきていたので、迎えに行くタクシーを申し込んでいた。
当時のタクシーは木炭車が多く、長距離の運行はガソリン車でないとダメだった。
7月3日に、やっとガソリン車の都合がつき、私が乗って早朝より豊中へ迎えに行った。

負傷した姪が病室を出る時は、看護婦が担架で玄関前まで運び、車に乗せたのである。
その日の夕方、私の家に連れて帰り、離れ座敷に落ち着かせた。
その日は、私の従弟が海軍に応召するので、午後7時頃姫路駅へ見送りに行き、続いて10時頃、私の工場の従業員が陸軍に応召したので
これまた、駅まで見送りに行った。
こうして、若い男子は次々と軍隊に召集、軍需工場に徴用されていった。

その日は、豊中へ姪を迎えに行き、続いて二度も兵隊送りをしてすっかり疲れてしまって、床に入るなり寝入ってしまった。
そこへ警報がなり始めたのである。
いつもの警報であれば一番に飛び出て防空指揮をするのであるが、当夜だけは警報も知らず、家内に「空襲やぁ」と起こされた。
服装も整えずに表に飛び出すと、敵機は上空に飛来し、姫路駅のわずか東北の上空で照明弾が落とされ、昼のように明るくなった。
すると、続いて焼夷弾が落とされ、間もなくしない各所に火災が起こり、市中は火の海となった。
当町においても町の南に焼夷弾を落とされ火災が起こり、続いて北の方にも落とされ、南北二ヵ所に火災が発生した。

この時、豊中から連れ帰った姪の居る離れ座敷に行き、「この辺は今のところは別条ない、危険になれば連れ出しに来る」と安心させ表に出て、
町内の人の退避の指揮をした。町内の人もどんどん退避していく。
馬力屋の放した馬が中に混じって、北から南へ、南から北へと飛びまわり、危険千万であった。
大阪の姪を出さなければならない時がきたので離れ座敷に戻りそこから表通りへ「誰か早く来てくれ」と大声で叫んだが、
すぐそこの防空壕の中に大勢の人が入っているのに誰一人助けてくれない。
ちょうどよいところに、私の弟の良象が、妻や子供を手柄山に避難させ、愛馬を連れ出しに戻ってくるのをみつけ、弟に頼んだ。
負傷している姪を担架で連れ出そうとすると、姪は気が立ったのか私に向って「おっちゃんは町内の用事があるからここに戻って欲しい。
ウチは良象のおっちゃんに負われていく」と言い、弟も「ワシが負って行く」と、姪を連れ出してくれた。
そのかわりに、弟は愛馬を助け出すことが出来ず、焼死させてしまった。 愛馬が姪の身代わりになってくれたのである。

老父は退避するに当たり、我々の気付かぬところに気付き、土蔵から米3俵を持ち出し、貴重な食料を確保してくれた。
また、真っ暗闇の中、仏間から阿弥陀様を持ち出していたのには敬服した。
私は町内会長としての責任上、町内を見回り、一度も防空壕に入らず、安全を監視し、町内の人の無事を見守っていた。
11、12隣保で作っていた第6防空壕が直撃を受けたが、入っていた人たちは不思議に怪我がなく、他に退避していた。
5、6隣保で作っている第三防空壕内には、他隣保の人や、市内から逃げてきた他町の人までがいっぱいに入っていて満員状態で危険なので
入っている人達に大声をはりあげて、「直撃でも受けたら皆死んでしまうので、早く出て手柄山の方面へ逃げるように」追い出すなど
人命の安全を図った。
その中には8隣保長の某氏が入っていて、私に「宝角さん、私の家はどうなっているの?」と聞く。
その人の家はその時燃え盛っていたので、「あなたの家は燃えている最中じゃ」と答えたが、その人は防空壕から出ようともしなかった。

町内は退避して人もなく、燃えるに任せて次々に延焼した。
上空の敵機は次々と波状的に飛来し、なかなか退陣せず、空襲時間は長かった。
早く空襲が止むようにと祈っていたが、ようやく4日の午前2時過ぎに収まった。
町内の人はおそるおそる帰ってきたが、焼け出された人はただ呆然として、まだ熱い焼跡を見つめる姿も哀れであった。
焼け残っている家に対しては必死で防火に努め、町内の中心部は残すことが出来た。
焼け残った家をこれ以上焼いてはいけないと、人々は南北に分かれて消火に当たったが、器具は手押しポンプが一台あるだけだった。
ポンプは南側に備え、他はバケツリレーで放水消火に努めていたが、北側の方の人から「町内会長、ポンプをまわせ」と言ってきた。
その時、風が南から強く吹いていたので、「風を見ろ、かぜを見ろ」と私は応答した。
町の公共の建物、倶楽部、屋台庫、それに浄円寺もあり、これらを焼いてはならなかったが、大変危険な状態であった。
浄円寺の坊さんのポンプを押している姿も一生懸命で、他の人達を刺激した。

当時、町内の戸数は127戸で、戦災を受けた戸数は96戸、残ったのは31戸であった。
死亡者は東方で母子2人、西方で母子2人の計4人であった。
焼け死んだ家畜は、馬一頭、牛一頭。
午前4時過ぎには延焼していた火災も防ぎ止め、焼けた家、焼け残った家、悲喜こもごもで、町内の人々は皆鎮痛悲惨極まりない。
私の家も全焼し、町の大切な書類も、一部はカバンに入れて持ち出していたが、大部分は焼失してしまった。
幸いに、次弟の家が焼け残ったので、両親を初め、兄弟一族は皆弟の家に世話になった。
町内会の事務所もここに設け、戦災の後始末や再起の第一歩を踏み出した。

町の役員の多くは戦災を受け、焼け残った役員も戦災を受けた親類の世話の為、町の運営にも支障が多かった。
そこで、町内全員に集まってもらって、お互いにこのようなことで挫けずに、今後の空襲に備えると共に、
焼跡の片付けや仮住居の建設をする為、元気を取り戻し、相助け、相励ましあってこの苦難の道を切り開いて行こうと話し合った。

町内の4名の死者は、いずれも家の近くに居て、防空壕に入らず、安全な場所に退避しなかった人であった。
空襲が止み、無事に帰ってきた人の多くが、「私に逃げ場所を指示してもらって、おかげで命拾いをしました」と礼を言って喜んだ。
手柄校区の死体の置き場所は当町の浄円寺で、幸い寺は焼け残っており、ここに4人の死体を収容した。
他町からの死体も運ばれてきて、9
遺体となった。
早く検死をしてくれるように警察に要請したがなかなか来てくれない。
度々催促しても「そのうちに」と言うだけで来てくれない。
お寺の坊さんからは、暑い時で、「臭くてたまらない」と苦情が出る。
やっと4日目になって、警察から「検死に行けないから死体を片付けてもよい」との連絡があったので、他町にも引き取ってもらい
我が町でも早速4人の合同葬を行った。

町内の人々は皆、防空姿のまま会葬し、遺族の人も衣類(喪服)が焼けてしまって無い為、空襲を受けた時の着衣のまま喪主としての弔辞を述べ、
涙ながらに挨拶をした。実に哀れな葬式であった。
私も煙の臭いのする泥まみれの、所々に火の粉にかかって焼跡の残る服装で参列した。
戦地における戦死者を葬った経験のある私には、それと同じような弔(とむら)いの風景に感じられた。

4日の空襲の日の夕方、庄村の何某が鋳物工場の使いに行く途中に、氏神の友田神社前で、不発弾に触れ、(爆弾が)破裂して重傷を負った。
ただでさえ混乱の中に又、このような惨事が発生したが、近くの医院は皆焼失しているので日赤病院まで運ぶという事態になった。
町の付近には不発弾やその他の危険物が散乱しているので、町内の人に注意するように伝達した。
数日後に、軍隊の不発弾処理班が来て処理してくれた。

日常食料品、衣料品等の生活必需品の配給は、市の配給課の通知によって、すべて配給所で配給を受け、町内隣保を通じ家庭に配給した。
市役所も戦災で焼け、混乱の中一般家庭、戦災家庭に対する特別配給等の配給品は通知することなく掲示して配給していた。
已む無く、毎日掲示板を見に行かねばならなかった。
焼け野原になった市街地を通り、上空は艦載機の爆撃の中を危険を冒して市役所へ連絡に行かねばならず、さながら内地も戦場であった。

以上は、空襲前後を思い出して書き綴ってみました。
将来このような
悲惨な戦争が二度と繰返されず、平和な世界が維持されるように祈り、(この文章が)多少の参考になれば幸甚です。

 

気の狂った馬

当時私は女子挺身隊の一員として、学友や先輩達と一緒に徴用されて、川西航空機の部品工場で働いていた。
日本中の大方の都市が次々と空襲されていたいたので、危機感は充分感じていたが、若かったのであまり恐ろしいという気持ちも無く
毎日元気一杯だった。
その日は、私の母校である県女の校舎が川西航空機の工場の一部として使用されていたので、学校の仮工場の方に出張していた。
警報が鳴った。
何やら少し、(差し)迫ったものを感じて、北条口の自分の家の方へ避難した。
警報が出れば自由に避難してよいことになっていた。
家では母と妹がいつでも防空壕に入れるように縁側に腰掛けて待機していた。
その後ほんのしばらく経った頃だろうか、ゴインゴインと、腹の底に響くようなB29の爆音が聞こえてきたので急いで防空壕に入った。

正直に言って、その時でも「また、いつもの通り過ぎだ」と思っていた。
爆音が急に大きく頭の上にさしかかり、続いてザザーッと何かを摩擦するようで体が竦(すく)むような、口では言い表せない無気味な音が降ってきて
アアッ、爆弾の音だと思った時、壕が下から揺すり上げられるようにドドーンと地響きが起きた。
母が止めるのも聞かずに、外へ飛び出してみると、北東の空に真っ黒な煙が立ち昇っているのが見えた。
工場がやられたと思い、こんな地方都市の工場まで狙ってくるとは、とても悪い状態になったのだなと直感した。

その後、波状攻撃が何分間続いただろうか。
とうとう姫路市へも爆弾が落ちたと繰り返し思いながら、壕の中で(爆撃が)終わるのをじっと待っていた。
警報が解除になるとすぐに京口のほうへ急いだ。
母校の正門前には直径10b程の深い大穴が出来ていて、思わず足が震えた。
校内では講堂に火が廻ると言って、皆でバケツリレーをして必死だった。
くたくたになってやっと消し止めたと紀を緩めたとたん、講堂の窓から一斉に火が吹出し、大きな建物が数分の間にメラメラと燃えてしまった。
運動場の北西の隅にある道具小屋の前に一同避難して、次々に類焼してゆく校舎を茫然と眺めていた。
校舎を焼く火が風を起こして、熱風が運動場の土の上を滑るように横に払って、あの広い運動場の片隅に立っていられない程の熱気だった。
書類が風に吹き上げられて窓から空へ舞い上がっていた。
この時、奇跡的に講堂の横に建っていた養生堂(作法室)が類書を免れて、戦後、焼跡で幼稚園の園舎となった。
戸も障子も無い、吹きさらしの建物の中で子供達が保育されていたが、冬になり、あまりに可哀想だからと、神屋町の中塚ベニヤ商会の
ご主人が、当時貴重品だったベニヤ板で囲いをしてくださったのを今でも感謝している。

この日の空襲で、川西航空機で働いていた人たちが大勢死亡された。
私達が毎日通っていた通用門の辺りが最初に被爆し、門の近くにあった食堂の人達に多数の被害が出たということを後から聞いた。
工場の敷地内は原型を全く留めない程、徹底的に破壊され尽くし、総組(最後に機体を仕上げる工場)の中に半壊されて傾いた機体が
幾つか見えるほかは、瓦礫の山になっていた。
ムンムンする熱気の中を集まった人達が、トタンの上に掘り出した死体を乗せて運んでいた。
あちこちに深い大穴が開いて、何処に死体があるのか、臭気が立ち込めていた。
赤い布を付けた棒切れが不発弾の目印に立てられていたが、その数があまりに多いので恐くて歩けなかった。

工員さん達は空襲と同時に市川の方へ逃げ、河原で多数の死者が出たということを聞いた。

先年結婚した次男の嫁の実家が市川の少し上流沿いの保城地区にある。
嫁のお母さんが話しておられたのだが、あの空襲があった日、川西がやられているというので近所の人達と一緒に河原へ避難していた。
しばらくすると、川下の方から風に乗って悲鳴とも呻きとも人の声とも形容の出来ないウワーンというような音が聞こえてきて今でも耳に残っている。
河原へ逃げた人達の悲鳴が風に乗って市川を登ってきて聞こえたと思うと、何とも恐ろしくてならないと言っておられた。

北条口の生家は幸いにこの日は被爆を免れたが、次の7月3日の焼夷爆弾攻撃で全焼してしまった。
その二日ほど前に、母は出産の為に里帰りしていた姉と、初孫(この娘は広島大学独文学科を卒業して先年結婚した)を送って広島の婚家へ
行って留守だった。
家には私と妹の二人だけいた。
川西航空機の空襲以来頻繁に警報が出て、市民の神経はピリピリしていたと思う。
其の日も夜になったので、釣金具を献納してしまった(不便な)蚊帳を吊って、横臥(よこ)になっていた。
警戒警報が鳴り、続いて空襲警報が鳴った。
其の当時のことを思い出してみるのだが、毎夜十分に眠っていないのに、眠いということが一度もなかった。
若さの順応性だったのだろうか。
すぐにモンペを履き、包帯や手拭や、なけなしの食料の入ったカバンを掛けて、少し離れた知人の家のコンクリート製の防空壕へ避難した。

その家の人は子供と一緒に疎開していて、留守宅には停車場司令部の兵隊さんが数人部屋借りをしていた。
最初に、夜空を切り裂くような落下音を聞いて、本能的に逃げようと思った。
広い家なので、壕は奥庭に造られていた。
表通りまで距離があるから、もし家が燃え出したら焼け死ぬと判断して、思い切りよく壕から飛び出したら、
西側にある土蔵の向こうから、夜空を焦がして火の手が舞い上がっていた。
妹と一緒に朝日町の踏切(現在の朝日橋陸橋)の方へ走った。

北条口は、戦前は旧姫路藩の下級武士族の屋敷跡で、閑静な屋敷町だったが、走っているのは私達と、一緒に逃げた兵隊さんだけで
誰の姿も見かけなかったという事は、皆警戒警報で避難しており、私達が一番遅かったらしい。
朝日町まで来た時、二度目の爆音を聞いたので、そこにある壕に逃げ込もうとしたら、壕の入口の戸を閉めて
「他の町の人は入れられないからあっちへ行ってくれ」と怒鳴られた。
仕方ないので踏み切りを渡り、海軍衣糧廠(現在の県営住宅)と日輪ゴムの間の道を一生懸命に南の田圃の方へと走った。
後を降り返る余裕もなかったが、あとからあとから焼夷弾が追いかけてくるような錯覚を起こした。
命からがらとはこんな気持ちのことを言うのだろうか、田んぼ道(たぶん阿保辺り)に出て道端にしゃがみこんで動けなかった。

その頃は空襲の最中だったのだろう、市街地は真赤に火を吹いていた。
そこから西の方から、南へ細い帯のような火の行列が飾磨まで続いて、飾磨一帯がまた火の海だった。
精巧な仕掛け花火のような一筋の火の帯を、ため息をつきながら眺めたのを思い出す。
その間にも、絶え間なく続く焼夷弾の落下音にたまらなくなって、小川に架かった石の橋の下へ潜り込んだ。
私達のほかに数人入っていたと思う。
真っ暗でよく分からなかったが、くもの巣が顔に触るし、膝まで水に浸かって屈んでいる前を、カエルがビシャビシャ跳ねて通った。
明るかったら随分汚かっただろう。
その橋の下に何時間か、とにかく朝までしゃがんでいた。

繰り返し繰り返し襲い掛かる波状攻撃の爆音を、早く終わってくれと心の中で祈りながら、長い長い時間聞いていた。
一緒にいた男の人がいろいろの神様、仏様の名前、お念仏、お経を唱えていた。
明け方近くになって、北東の方角でもの凄い爆発音が続いて起こって、震え上がらせた。
火薬がはぜったのだろうと言っていたが、本当のことは分からない。
やっと空襲も終わったのか、爆音も止み、夜が明けたらしいので橋の下から這い出してみた。
辺りが非常に明るかった。
命が助かったという思いを改めてかみ締めながら辺りを見まわしてみた。
その辺りの田圃には、2、3bおきに赤いヒラヒラを付けた焼夷弾が一面に突き刺さっていた。
石の橋がなかったら身体に突き刺さっていただろう。  まったく幸運だった。
疲れは少しも感じなかった。
町内の方々には白や黒の煙が立ち昇っていた。
その方へ向って妹と畦道を伝って歩いた。
気の狂った馬がドスドスと走っていたが、突然ドサッと倒れてしまった。

しばらく行くと、顔に布を掛けた人が仰向けに寝ていて、女の人が何か話しかけながら介抱している様子だ。
どうしたのかと尋ねてみると、倒れている人は、招集が届いて入隊することになっているのに足の太腿に直撃を受けて砕けてしまったらしいと言う。
息子さんのようだった。
気の毒になって、持っていた薬や包帯を全部あげて、とにかく励まして別れた。
年寄りが、着物でくるんだ子供を抱いて立っていた。
子供の足が2本、だらりと下って真っ白だった。
道に10歳位の男の子が座っていた。
一人だったので、妹が聞いてみたら、両親にはぐれたらしい。
おなかが空いている様子なので、妹は逃げる時持ち出した弁当をその子に渡してしまった。
アルミの弁当箱に焼いたおむすびを二つ程入れて、風呂敷でしっかり包んだのを持って逃げたのだが、
気が付いてみると、何時の間にか風呂敷はどこかへ行ってしまって、裸の弁当箱だけ大事に握っていた。
道を辿ってやっと姫路駅の南へ出た。
そのまま駅の構内に入ると、ホームが真っ黒に焼けただれ、骨だけになった貨車の列がゴタゴタと連なっていた。
空気の熱さに困りながら「まねき食品」の社屋の前に出た。
焼け崩れてはいなかったが、この建物も真っ黒で、中はなにもなかった。
母が広島へ発つ前に、もし我家が焼けたら八代か龍野町の知人の家へ行くようにと聞いていたので、なんとかして練兵場(城南広場)まで出ようと
思い、御幸通らしい所を通ることにした。電柱が倒れかかり、電線が散乱して、危なくて思うように歩けない。

見渡す限りの焼野が原と言えば、静かで音もしない鬼気迫る風景を想像してしまうが、この場合はそんなもんではなかった。
町中が真赤に燃えて、焼け落ちた木材やら家財がブスブスと火を吹き続けて白やら黒の煙を上げている。
その熱さがたまらなかった。息が詰まるのではないかと思ったほどである。
ようやく公会堂の前に出ると、焼け残った公会堂の前に、早、市役所が机を持ち出して受付をしていた。
当時の市役所の人達は立派だったと思う。
その中に小学校の時の受け持ちだった前田秀夫先生(前・理財局長)がおられて、どうした大丈夫かと声を掛けてくださった。
困ったら御立の家まで来なさいとも言ってくださった。

北条口の生家は台所の東半分と納屋と土塀を残して全焼してしまっていた。
その一帯には、あちこちに焼け残った土蔵がポツポツと小島のように目に付くばかりで、生まれて育った町の姿は跡形もなくなっていた。

 

地獄絵に孤児を抱いて

梅雨晴れの好天気だった。
一死報国、銃後の守りは我々の手で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。  学徒全員、海軍衣糧廠の朝はすがすがしい。
音楽に合わせて縄跳び体操を終わり、各職場につく。
播磨高校の光田先生と、明日の日程と本日の出欠等、打ち合わせ日誌記録を処理していた。
空襲警報発令、今日は何となく胸騒ぎを感じた。
舎内に入るなり 「学徒全員退避、作業やめ!」
(前々から退避訓練はよくやっていた。無言の中に四列縦隊、頭の上に網のカムフラージュをして休みなしで市川の黒石河原まで駈足である)
いつものように舎外に出ると、石原海軍中尉の厳しい顔が待っていた。
「全員防空壕に入れ」 状況が緊迫しているらしいが、演習どおり壕に入り点呼する。
山中調次班長と二人で舎内に入り、ミシン(外国製のとてもよいミシン)を担いで、二階より下の壕の中に入れる。

外は対空防御の部署につく水平たちの駈足と命令伝達で息詰る一瞬だった。
司令塔の軍艦旗の下で、河野廠長(当時少尉)より発する伝令が次から次へと大声で伝えられ、駈足で武装した水平が走る。
暗い壕の中では防空頭巾を被り、お互いに抱き合っているが、どの顔も不安に脅えていた。
いつか遭遇する運命だと思っていたが、又、その為の訓練は徹底していた。
しかし、現実に空襲を前にして、全身の血は凍り身震いを感じた。

西南の方角からゆっくりとB29の編隊が流れるように近づく。
2、3日前から偵察機が何回も飛んで来ている。 多分充分の予備知識を持っての爆撃行動らしい。
ゆうゆう迫らず、人を呑んだ爆撃だ。
ゴマ粒の機影が大きくなる、爆音は近づく・・・・・司令塔その他の配置場所よりバンバンバン、機関銃の叫ぶような音と光が連続する。
「両手で両眼を押さえ、大きく口を開くのだぞ!」と学徒達に最後の命令をする。
敵機はいよいよ頭上に来た。 その瞬間、一斉に悪魔のような黒い爆弾が投下された。

「ザーッ」という音と共に機を離れた爆弾は斜めに流れ 「カラン」「カラン」と軽い音がして、爆弾の留め金のような物が頭上に落ち、
爆弾は遠く流れて行く・・・・・・。 糸を引くように流れて行く。
「いよいよ来たぞ」と緊張の反面、ここには落ちないことが分かった。
落ち着きを取り戻し、爆弾の行く先を見つめる。 「多分川西航空機だな」と直感した。
黒い雲がむくむくと上がると同時に百雷の落ちる音。 その後連続的に音、光、黒雲がむくむくと盛り上がった。
衣糧廠の機関銃は泣くような音で吠えている。 味方の戦闘機は一機も見えない。
「無念、残念、口惜しい。赤子の手をねじるようなことだ!」 歯を食いしばり、拳を握り、雲を睨む。
両眼より大粒の涙が流れ出した。 やがて川西航空機爆撃の情報が報知された。
当時その付近の生徒達7名の者は「家が焼けた、おかあちゃん達は生きているかしらん」と、悲しみが濃くなり、泣き声である。
私は石原中尉に依頼して、大きなにぎり飯(当時はとても食べさせて貰えなかった物)5つを持たせて、家まで送る事を決意する。

「よく注意して、危険だから」と注意を耳にしながら衣糧廠を出る。
公会堂前を過ぎると「縄張り」で交通遮断であった。
警防団の許可を得て姫路橋(陸橋)まで来ると、打ちのめされて両手両足を伸ばしたまま、両眼を開き、黒煙で真っ黒な死体、負傷者を担架に乗せて
来る人達に出会った。それが次から次へ・・・・・・・・・・・・・・・・。
現在の東光中学校の東側には約30b位の大穴が開いて、家の姿さえない。
暑さと煙、塵埃(ちりほこり)に顔は真赤で、その上は黒くなっている姿で、誰一人口を開くこともなく歩いた。
「ああ、これが戦争だな」と心が痛む。

城東小学校の傍の小さなお稲荷様がメラメラ燃えていた事が印象に残っている。
道がハッキリせず、あちこちと生徒達の家を訪ねてまわる。 どの生徒の家も破壊と焼失であった。
ある生徒の家の付近では、防空壕の中から母親が這い出して「よかったなー」と生徒を抱えて抱き合っている姿に涙を流した。
生徒を次々と送り届けたが、その中には、一家全滅(しているためやむなく)近所の人に預けた生徒もあった。
又一人は、近所の人達もあまり知人がなく、仕方がないので私の家に連れて帰らねばならなくなり、立て札をして焼跡を離れ帰路についた。
初夏の夜の帳(とばり)が黒い焼跡にやってくる。
途中、色々な焼跡の様子をこの目で見て感無量だった。

彼女は一瞬にして父母兄弟を失い、孤独の世界に投げ出された。  泣くに泣けない境遇だった。
2、3日後、高知の叔父さんがその生徒を迎えにやってきた。
現在その生徒達も40歳を越えている。どこにどうして暮らしているか、幸福な日々をおくっている事を祈っていた。
ところが一昨年、突然、乗用車で子供二人と主人(自衛隊)と千葉県に自宅を持ち、旅行を兼ねてやって来た。
その後は年賀状を書いている。その一枚を書く度に当時の悲しい思い出は去らない。

新築の家も一夜で灰

「お父ちゃん! 防空頭巾が焼けるよー」 空はブルンブルンと爆音が響き、地上は真赤な火の海。
「もう帰るぞ」 と思ったその瞬間、「ザーッ」と無気味な焼夷弾の落下音・・・・・・・・・・。
防空壕には家族8人がいる。 私は家財の一部を隣の田圃に運んでいる途中だった。
思わず地面に伏せた。体の周囲は火の海だった。立ち上がろうとすると上着を何かが押さえている。
後で分かったが、焼夷弾の不発弾が上着の一部に突き刺さっていた。
3b離れたところで 「誰か薬はないか!」と叫んでいる。(この人は近所の人で、大腿骨に焼夷弾が命中して翌々日死亡)
火の手が近くで大きく上がり、黒煙が渦巻く。

防空壕の家族を呼び出し、「どこかに逃げろ。このままでは煙に巻き込まれるぞ!」と叫んだ。
その時妻は、「お父ちゃん正子の防空頭巾が燃えている!」と叫ぶ。 背中には長男を背負い、夏蒲団を被っていた。必死の形相である。
とっさに、4歳の子の頭巾に手をつけると私の手袋が燃え出した。
(焼夷弾の中の燃料はゴム糊のようなものであった)あわてて手袋、頭巾を取り、足で踏むと靴が燃えるし、なかなか消えなかった。
「おかあちゃん、頭の上の布団が燃えている」その辺一帯は地獄絵そのままで、人魂(ひとだま)のような火が飛び回っていた。
敵機来たらばと待ち構えていた私も、家族の事で気をとられていた。
ふと見ると、私の家から東へ燃えている。

花影町一丁目の私の家を堺として東へ風が吹き、流れるように燃焼する物凄い音がしている。
「馬鹿野郎!」と消火用バケツを地面に叩き付けた。
一生一代の資本をかけて、約1年かかって新築した二階建ての思いである家が全焼。
その後3カ年間、私の作ったバラック小屋での生活が始まった。
朝に夕に、苦しい生活の中でいつも励ましになったのは、家内一同無事であったこと。
父を弔い(とむらい)息子をなくした方々のことを思うと、いつも頭が下がる思いである。

現在5人の子女も成長し、己の道に進んでいる。
平和な生活の続いている時、悪夢のような思い出に懐かしさを感じたりするが、戦争は絶対反対。
この苦々しい体験を持たない今の若人達にしっかりと説き聞かせねばならないと思う。

 

よみがえる悪夢

昼ご飯の最中であった。
突然大きな轟音と共に屋上から土埃が降ってきた。
さっそく家族の者は土蔵の中に避難した。防空班員として招集された私は、間もなく野里大日町大歳神社に急いだ。
そこには多数の重軽傷者と血まみれになった死者が、筵(むしろ)の担架の上に寝かされてあった。
一種異様な臭みが炎天下に漂い、見るも無惨な光景が広がっていた。
重軽傷者をトラックに乗せ、日赤病院まで送り届けたが、病院は右往左往の大混乱とけが人の阿鼻叫喚の声が天井にこだましていた。
その病院からトボトボ歩いて家に帰ったのは夕方であった。

翌日、川西航空機の爆撃の跡を視察に行った。
川西航空機は勿論、付近一帯は焼け野原となり、爆弾で大きな穴が一面に開いていた。
家屋の倒壊したのを見ながら「竹の門」間で行くと、川の中に赤児の死体が浮いていて、多くの人が集まっていたが、目を覆いたくなる有様だった。

7月3日の夜の大爆撃に(際して)は空襲(来襲)とともに家族をいち早く避難させた。
野里方面は野里小学校、梅ヶ枝町遊郭、伊伝居新道、高木の各方面に火災が発生した。
私は梅ヶ枝町に出動、防火に当たった。
野里小学校や梅ヶ枝町遊郭は全焼、伊伝居新道では高倉酒店、高木ではほとんど全部を焼失して、火が鎮まったのは翌朝の明け方だった。
やれやれと思うより、私は阿保の実家が気がかりで、余燼くすぶる焦土の街をあちらこちらを避けて行き、
国道から市川の堤防づたいに阿保の実家にたどり着いた。
ところが、そこに疎開していた家財道具、衣類などは家もろとも焼けてしまい、私達親子4人は着の身着のままとなった。

私は尋常小学校4年を終え、当時、姫路で唯一の新聞社である鷺城新聞社活版部に入社した。
その後、大正12年に印刷業を独立、太平洋戦争酣(たけなわ)の頃、企業整備と同時に、機械・活字等を国家に供出し失業した。
そして戦火に見舞われたのである。
ああ茫々70有余年、子の私の反省は戦争という悪夢に暮れ、未だにその恐ろしい夢は消えそうにない。

 

全焼の学校に湯沸し場だけが白く残っていた

「それ やっつけろ」 「戦車でいけっ」 「歩兵を出そう」
昨年、東京池袋のデパートが屋上に中高生を集めて戦争ごっこをやらせた。
戦車、大砲、兵隊などのミニチュア模型を使う「ウォーゲーム」という遊びである。
鉄カブト、軍服姿の少年達は夢中、大人の方は 
「まあゲームですからなね、本当の戦争をするわけじゃなし・・・・」とか
「戦争の恐ろしさを知らないのです、遊びでもやる気にはなれません。」と、
戦争を知らない子供達の戦争ごっこに対する人々の反応は複雑であった。

昭和20年になると戦争はいよいよ末期症状を呈し、県下各地が激しく空襲に見舞われるようになった。
小学高等科の生徒、中学生、女学校の学徒勤労動員があり、学業を捨てて、みんな工場へモンペ姿で働きに行った。
田舎の方の学校では薪炭増産、堆肥増産、運動場開墾、場糧干草運搬等と、戦争に駆り立てた。

どの家にも防空壕があった。
学校にも防空壕がいくつか掘られ、広い運動場は全て寸土も残さずイモ畑と化してしまった。
物資はますます窮乏、米・タバコ・砂糖・タオルなどはすべて配給。
甘い物は一つもなく、今有り余る物資の中で、おごりきった口を持った現代の子供に話して聞かせても実感は湧いてこないと思う。

教育にも身が入らず、警報で子供達を帰宅させたあと私達は作業した。
飛行機雲を青空にくうきりと一直線のように残して西の方へ飛んで行くB29を後者の壁にもたれて見ていた日もあった。
今日は岡山、昨日は明石・・・・・・・・・・姫路もやがてなど思いながらも、実際自分が戦火に見舞われるなどとは思われなかった。
他の町でよかったとホッとする心の醜さも否定できなかった。
夜、家に帰っても、警報が鳴ると学校を守る為走って行ったものだ。

一次空襲

昭和20年、私はその頃市内の城巽国民学校に勤務していた。
6月22日午前10時、その日も警報で、子供達を帰宅させ職員室で封筒張りをしていた。
警防団員の方が飛び込んでこられて「敵機来襲」と叫ばれた。
南出口に出ると、すぐ南の空にアメリカの飛行機が爆音を立てて7機近づいて来ていた。
「とうとう姫路へも来た」と、あわてて防空壕に飛び込んで目と鼻を押さえた瞬間「ドカーン」と大きな音と共に壕が揺れた。
空軍はB29の編隊で、7機編隊による連続7回の波状攻撃であった。
警報解除を聞き、恐る恐る外に出た。 北校舎の裏からもうもうと煙が出ている。
思わず「学校がやられた」と思ったが、それはずっと東北の、京口駅の東の軍需工場である川西航空機、山陽皮革、日本フェルトの
3工場を爆撃したのだった。
3工場は炎上し、付近の民家も被害を被った。
神屋町の橋の上でうつ伏せになっている人の死骸を見て、思わず目をそらし、学校に逃げて帰った。
(この時の家屋の被害は全焼550、半焼80、全壊715、半壊80、人の被害、死亡340、重傷113、軽傷237、罹災者10,230


学校の中はたちまち家を焼かれた人たちの避難場所になり、机・椅子を積み上げた。
炊き出しに婦人会が出動。 次の日から多くの人や子供達は、親類縁者を頼って疎開していった。
その頃広畑から通っていた私は、電車は1時間に一輌しかない上に、窓やデッキからぶら下がって乗る人の群れからはみ出され
汽車に乗ろうと英賀保の駅まで走ったが、乗ることが出来ず仕方なく歩いて城巽小に・・・・・・・・・・・・・・・・。
今思えば≪よくぞ歩いた≫と感慨無量である。
空襲が少し遠のいた頃、疎開先から子供達はぼつぼつ帰ってきた。 イモの蔓を毎日摘んで帰られる先生もあった。
それ程皆な飢えていたのだ。
田舎へ出かけて着物を食料に替える人もどんどん増えていった。
私もコウリャン米を食べる日が多かった。
ひもじい思いをさせた子供達を思うと、心が痛む思いをする。

二次空襲

もう敵機の空襲はないだろうと安心していた矢先、同年7月3日の真夜中より翌4日の早朝にかけ第二回の空襲があった。
その夜中は、警報に続き空襲警報。
南の空に爆音を聞いた途端、「ドカーン」と物凄い音。北の窓を開けて東北を見ると、姫路駅の辺りがもう赤く燃え上がっていた。
「いよいよやってきた」と思うと、何をどうしたやら、モンペを履き、5歳と3歳の子供を連れて妹とロータリーまで逃げて、木下にうずくまった。
主人と父母は家の防空壕へ。
何台かの爆撃機は、大きく西北の方から広畑を通り、飾磨街道に焼夷弾を落としながら姫路の中心部に火の雨を降らせた。
まるで大きな花火のよう。真赤に燃える東北の空を、震えながら見ていた。
時々爆風がどっと来る。 広畑の南で≪ピカピカ≫と光った。 さあ、投下されたと目と耳を押さえた。
しかし、それは海中に落ちたようでホッとした。
何回も何回も、これ見よがしに波状攻撃をして、4時頃解除になった。

さっそく主人に自転車(の後ろ)に積んでもらって、里の両親・妹の家や学校が気になって、飛んで行った。
日赤病院下から、東へは行かれず、名古山から安室の山の麓(ふもと)の道へ出ることにした。
その山裾(やますそ)で、逃げ出した父兄や子供がぼつぼつ帰ってくるのに出会った。 ことばもなかった。
夢中で母の家に駆け込んだ。 家も両親も無事だった。 田圃を隔てて北の部落は焼けていた。
妹は大きなお腹を抱えて、主人と一人ずつ子供を負ぶって、今の競馬場の方へ逃げたが、目の前に落ちてくる焼夷弾に生きた心地もなかったそうだ。
灯火管制下のあの星空と、火が雨と降、る焼夷弾の下を潜り抜け(くぐりぬけ)て走った者のみに分かる実感である。
街の人、子供達はみんなこんな思いで公園や城の付近、或いは壕に逃げられたのだ。
雨と降ってくる焼夷弾の下を潜り抜け、焼けている我家を後に・・・・・・そんな苦しい目に誰がしたのか! 何がさせたのか!

学校が気にかかって、すぐ一人で野里街道を南へ南へと駆けるように公会堂前まで来た。
校区の一部を残し、見渡す限り丸焼け。煙を出して燃えくすぶっていた。 背筋に水を浴びたようだった。
何百人の人が子の下で死んでいるかもしれない・・・・・・・・・・・・・ああ焦土と化してしまった。
昨日までこの目で確かめられたあの街のたたずまいはどこへ行ってしまったのだろう。
道は塞がれ、東の貨物駅の方から弾丸の破裂する音。 歩けば靴底が熱くなる中を無我夢中で城巽校にたどり着いた。
全部丸焼け、コンクリートの湯沸場だけがうす白く残っていたのが、今も目に焼きついている。
焼跡に、校長先生と二人の宿直の先生の姿を見て、駆け寄った私の目から熱い涙が溢れ出た。

この二回目の空襲で、姫路市中心部の、焼夷弾によって焼かれた民家は48%にのぼった。
市役所、郵便局、姫路駅、城巽、城南、船場などの小学校、お城付近の兵舎などを焼き尽くした。
家屋の全焼 10,248、半焼 39、重傷者41、軽傷者119、 死亡173、罹災者数45,182、市内は焼けた瓦や煉瓦の廃お墟に変り果てた。
焼跡に夏の日は厳しく、子供の姿は一人もなかった。
奉安殿の木陰に集まった何人かの職員が、放心状態で無為に日を送った。
時々、機銃掃射の飛行機が頭の上をかすめて通った。

そんな状態でありながら、誰一人≪負ける≫とは口に出さなかった。
そろそろ日本の敗北は時間の問題ではなかろうかと、一抹の不安を抱くようになった。
おそらく誰もがそうではなかったかと思う。 ただ、それを口にすることをはばかっただけだ。
つい先頃まで、道で出会っても立派な奥様姿であった人々まで、顔は薄汚れ、乞食同然の姿で放心状態。
又、ある人は口をもぐもぐさせながら歩いておられる。 駅の改札員の男も口をモグモグ・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「衣食足りて礼節を知る」 との故人の言葉がしみじみ身に沁みたのもこの時であった。
「戦争は絶対嫌いだ」と、本当に戦争を知らない子にも叫ばせたい。

戦前の我が国は、世界に誇る軍備を持っていた。
しかし、その結果がどうなったのか、言うまでもない。
幾百万の尊い命を失い、国土は荒廃の極みに達した。
この事を深く心に刻んで、憲法に謳(うた)われている平和主義に徹していきたいものだ。

二年余の戦火に3児を失う

私の一生において忘れることが出来ないものは、あの恐ろしかった戦争であります。
私はその当初から船場地区の国防婦人会のお世話をしておりました。
戦争が激しくなるにつれて毎月、夜となく昼となく、白いエプロン姿に襷(たすき)をかけて、出征兵士のお見送りや傷病兵のお迎えに駅へ行き
また、傷ついた兵士達のお見舞いに病院へ行き、或いは留守家族のご慰問ご激励に参っておりました。
時には民家に宿泊されている召集兵士達の炊き出しの握り飯をしましたりして、それはそれは忙しい毎日でございました。
その時の心境は、どうぞ戦争に勝ちますようにとひたすら念願して一生懸命奉仕の毎日でございました。

昭和17年、当時19才であった四男・俊彦が、相生造船所に徴用工といsて入社しました。
私は、お役に立つことができたと喜びました。
常日頃から子供達には、身を捨てて一生懸命ご奉公することを言い聞かせておりましたので、ご奉公が出切る事を喜んで、勇んで送ってやりました。
日頃慣れない仕事であり、真面目な気性から力一杯働き続けたことでしょう。
ついに、病に冒されて、入院治療することになりました。
満足にご奉公も出来ないままに倒れたことは、その時代の心境としては耐えられない苦痛でした。
奉仕奉仕の生活の中で、日夜寝食を忘れての看病も又苦しいものでした。
手厚い看病の甲斐もなく、昭和19年1月31日、ついに病死いたしました。
若い身で病死したことは、親として偲びがたいものがありましたが、その当時は国のため、陛下の為忠義を尽くさねば申し訳ないと思い、
たとえ戦場に行っていなくても、国の為に死することができたことはせめてものことと諦めておりました。

その後戦争は日増しに激しくなり、毎日のニュースで空襲に空襲と報道され、生きた心地もいたしませんでした。
昭和20年3月19日、私にとっては、将来の生きる希望も力もなくした
一生忘れることの出来ない日が参りました。
ちょうど午後2時頃であったと思います。
敵機、グラマンが姫路上空を通過しました。そして、程なく播但線仁豊野駅付近で列車を襲撃したニュースが伝わりました。
当時長男輝彦(32歳)が生野中学の教師をしておりました。
その時、スヤリ鉄工所が生野中学に工場疎開するので、その打ち合わせにスヤリ工場に出張しておりました。
空襲警報も出ていましたが、仕事の都合で早く帰らねばならなかったので、生野へ帰る途中にこの空襲に遭ったのです。

その前日の3月17日、神戸の空襲で焼け出された人々がたくさん帰省されていましたので、汽車は超満員で、入口のデッキに立っていたそうです。
銃丸が長男の頭に命中して即死しました。
仁豊野におられた教え子から通知を受けて驚きました。
その頃、日赤病院にはけが人がたくさん運ばれ、大変なことでした。
あまりの出来事で、私は気が遠くなって、どうしたか分かりませんでした。
人に連れられて仁豊野の寺に参りました。その時17体の遺体が安置されていたそうです。
その前後の私はどうしたか記憶にありません。 気違いのような私であったと思います。

葬式も済んで、だんだん平常に落ち着いて考えました。
世の中のたくさんの人々が私と同じように息子を亡くされているのだ。
これもお国のためだ、元気を出して戦争に勝たねばという気持ちになりましたが、毎日残された2歳と3歳になる兄弟と、当時22歳になる
嫁が今後どうして暮らしていくのかと、頭の痛い問題がありました。
残された二人の幼児を立派に育て、成人させることが仏へのせめてもの供養になるだろう。
しっかり頑張りましょうと自分に言い聞かせていましたが、どうしても人一倍優しかった長男だけに、忘れることは一時として無く苦しみ続けました。
そうこうしている間に、8月15日の終戦となりました。その時の気持ちは何とも言い表しようのないものがありました。

9月になって、学校の夏休みも終わり、5男の直比古(当時11歳)が学校に行くようになり、
間もなく10月に入って船場小学校の焼跡を整理して野菜畑を作る作業が始まりました。
ある日受け持ちの小暮先生に連れられて耕作中に、友達の備中(クワ)が頭に当たってケガをしたといって連れて帰って来てもらいました。
よく見るとちょっとしたケガでしたし、本人も痛まないらしく元気でいましたので、ほんのちょっとしたケガ位に思って心配もせずに病院で治療を受けました。
それから2、3日して、発熱と同時に手足が不自由になり、口が利けなくなって何も言えなくなりました。
早速入院して、手厚い治療を受けましたが病状は悪化するばかり・・・・・・・・薬石効なく、翌21年2月8日に12才で亡くなりました。
最後の晩に一言だけ怪しげに「おかあちゃん」と申しましたので、ああこれで口が利けるようになるのかと、不安の中にも一縷の望みを持って
見守っていましたが、これが最後の言葉でした。
4ヶ月病床で苦しんだ心境はどんなもんであったろうか、何が話したかったことだろう、可哀想になどと思い合わせて、私は苦しい毎日でした。

19年、20年、21年とまる2年1ヶ月の間に3人の子供を亡くした私は、とても苦しくて生きる力もありませんでした。
とうとうノイローゼになりました。
そんな状態で世間の皆様と顔を合わせるのがなんだか恥ずかしく思い、どんな因縁でこんな残酷な目に合わねばならないのだろうかと考え続けました。
こんな毎日でありましたので、婦人会の世話も止めて、ひたすら家庭内で静養に努め、子供の冥福を祈り、つとめて宗教的な修養をさせて頂く
ようになった)のもこの時からでございます。
そうしているうちに、昭和22年12月、またまた地区の皆様のご推薦によって再度お世話をさせて頂くことになりまして、以来昭和42年4月まで
20年間務めさせて頂きました。
終戦後は、学校も焼けましたこととて、旧四六(よんろく)の兵舎の後を借りて授業をしておられたので、その一室を使わせていただき、
婦人会活動をいたしました。

いかに宿命とはいえ、3人の男子を戦場に、華々しい戦死をしたのであれば当時の気持ちとして名誉の戦死と謳われたであろうが
三人が三人とも戦災死したことは犬死であった感じさえして、恥ずかしい気持ちになり、人様に顔を見られるのも心辛いような感じでした。
おかげさまで、助かった二人の兄妹は健やかに成人して、今日ではよき社会人になってくれました。
私は今も健康に恵まれ、幸福に余生を送っています。
願わくば、今後こういう傷ましい戦争などのない平和な、そして豊かな社会を皆んなの力で作りたいものです。

 

六本煙突にロケット弾が命中

白昼、サイパン島から来襲したB29爆撃機。
当時、近畿地区および瀬戸内海東部海面警戒警報が出て、すぐに兵庫県空襲警報のサイレンが鳴ると、
南の空から飛行機雲を引いたB29が姫路市上空に現れた。
その時、パラパラと黒い物を落とした。
シャーッという音がして、ドドドンとはらわたを抉られるような音がすると、姫路市の東部に白い煙が立ち昇った。
(電気炉から酸素吹精により上がる煙の茶色が白い煙に変わったような)後から後からB29の爆撃は続いた。
30分程して爆撃は止み、B29は三重県尾鷲付近から脱出した。(近畿地方の空襲コースだということを後から知った
これで、姫路市の川西航空機工場は焼けたアングルだけを残して全滅した。

この頃から、四国土佐沖の艦上からの艦載機グラマン4Fの銃撃に姫路地方は恐怖にさらされた。
播但線の列車および山電飾磨駅のホームや、市内各所、海岸部の工場地帯へ銃撃を受け、
神武8350工場(山陽特殊製鋼)、神武8311工場(日本砂鉄)も被害を被り、日鉄の六本煙突にロケット弾(不発)が投下された。
7月3日、夜9時頃空襲警報になって、南方から北上中のB29の行方を報じていたラジオが、姫路地方は警戒を要しますと報じた。
不安の中に居ると、姫路市の上空に来たB29の一番機が照明弾を落としてパッと明るくなった。
と思ったら、続く機から盛んに焼夷弾が落とされ、姫路の町々から大火が上がった。
後から後からB29が続き、日本の高射砲は攻撃はするがB29は悠々として空襲を続け、町の中心は紅蓮の炎となった。
翼の星のマークまで映り、もう済んだと思っていると、飾磨の関西配電や飾磨駅付近は火の海となり敷島紡績の南のほうも燃え出した。
空襲が去って一夜明けても、町々には煙が立ち上がり、姫路城が、遮られる物がなくぽっかりと浮かんでいた。

乱雲

早いものだ・・・・・・あれから29年もの歳月が経つ。
昭和19年仲秋のある日の午前11時頃、神武第7611工場(その当時軍部の防諜機密保持のため、現在の新日本製鉄・広畑製鉄所を
このように呼称し、東洋一の最新鋭製鉄工場と言われていた)の付属病院レントゲン室は、朝鮮平安北道辺りから遥々と強制徴用あされてきた
農民、労働者20余名の入所前の体格検査が行われようとしていた。

この一団は、30歳から45歳の、見るからに素朴な男達で、長途の旅で疲れ切って黙々と一列縦隊に立たされ、引率者の労務課員から氏名を呼ばれ
≪ネエ≫と、聞きなれない低音で答えていた。
彼らの全員が文盲であり、日本語を解する者は7、8名という、植民地の圧制と極貧に耐えてきた善良な人達ばかりだった。
遠い故郷には、愛する妻子を残し、非情な徴用に応じたというべきで、その顔色は土褐色に近く、シワの数条が惨苦を表していると思われた。
また彼等は従順そのもので、陸軍下士官あがりの冷酷な労務課員の声は鋭くレントゲン室の壁にハネ返るように響き、受刑者に対する看守にも似た
態度で彼らに接している情景は、憎悪さえ抱かせる者があった。

私は、かつての朝鮮での生活(ソウル)体験から、日常の朝鮮語が若干話すことができた。
日本語を解さない彼らのうちの何人かに優しく話しかけて、いくらかでも気持ちを和らげるように仕向けた。
彼等が、私の即製の朝鮮語を微笑みで受け答えしてくれたことを懐かしく思い出すと共に、主任技術者の私は室員8名の男女に対して
異郷から来た20余名を正規の従業員同様に扱うように申し渡した。
それと同時に、病院長から電話がかかり、私に至急来室せよとの事で、何事かと憂いつつ、急ぎH病院長の前に立った。
それから間もなくU副院長(内科医長兼務)が来室、我々二人に、院長から≪製鉄所K閣下の家族(二女で20歳位)が病臥中であり
所長の社宅へ急遽往診するよう≫に命ぜられた。

私は副院長に所長家族の病名を尋ねたが、温厚な副院長はただニヤニヤと笑うのみで、(副院長は)明答を避けているように感じた。
早速私は携帯用レントゲン装置一式を準備、助手のS君を同行すべく手配を終えた。
副院長は内科のM婦長を同行、往診用自動車に乗り込み、運転手のK君を含めて同勢5名が所長宅へと急ぐ。
その途上、正午のサイレンを聞いた。
所長社宅は、現在の京見山麓にある、京見社宅130余戸の部課長役宅の中央に位置した閑静な地にある。
門扉は左右に開かれて、D警守長が挙手の礼をもって私達一行を迎える。

南向きの日当たりのよい8畳の和室が病室で、広縁には秋咲きの洋花の幾鉢かが並べられていたことを思い出す。
病床の娘さんの顔の血色は頗(すこぶる)良く、やせ細った私より遥かに健康に見える。
娘は)私たち4人に目礼一つするでもなく、両眼を天井に向けたままである。
所長夫人の姿も見えず、中年の女中さん一人が娘さんの身辺を世話しているようであった。

副院長は問診数分の後、M婦長に手伝わせて精密な診療を約20分間続けた。
その後を受けて、私が胸部レントゲン写真を撮るべく準備を終わった時、突如として米機来襲の警報が鳴った。
D警守長の指示に従い、所長社宅専用の防空壕に助手のS君と共に退避すべく戸外に出た。
南の空を見上げたところ、5機編隊のB29が製鋼工場の超高煙突を目指して北上してくるようであった。
仲秋の空は晴れ渡り、爽やかで、それぞれの煙突から吐き出す灰色の煙が細々とあがり、作業は続行しているようだった。

防空壕は所長社宅の門を入った左側に設けられ、鉄筋コンクリート造りの、5トン爆弾の直撃を受けても絶対安全といわれた強固な物だった。
一般市中には見当たらない代物で、内部は幾曲がりかした通路を経て収容人員15名は可能かと思われる、真新しい畳が敷かれた部屋があった。
(勿論、)電灯・電話の設備も(施して)あった。
私とS君が入壕したところ、その部屋には既に運転手のK君が先客として入っていて、棚に並べられた珍奇な各種のビンを呆然と見つめていた。
私もその棚の前に近寄って(見ると)、驚いたことには、それは久しく見ることもなかった灘五郷の清酒はもとより、輸入物のウィスキー、ブランデー
の何種類かが20本近くあり、棚の一隅にはチーズ、ベーコン等の缶詰も幾つかあった。
これを見た私は奇声を発したと思う。しかし、羨望と言うより憤怒に似た激情を覚えた。

K君が私に≪1、2本無断で頂いて行こうかナー≫と言って笑みを浮かべていたところへ副院長と警守長がご入来となった。
私は副院長に棚の実況を目で合図した。 一同、茫然とするばかりであった。
退避時間約30分位で警報は解除され、往診の任務は終わり病院へ戻った。
病院に帰ってからも、(あの)棚の品々が頭から離れず、冷え切った工場給食に箸をつける気にもならなかった。
自分の椅子に寄りかかって溜息数回、そして乾し草の香りがする工場配給の、名ばかりで得体の知れない細いタバコを
吸っては吐き
吸っては吐きして、この虚しい動作を繰返すばかりであった。

午前中の、あの遠来異郷の善良な人たちを思い出した。
彼等は検診も終わり、動物小屋にも等しいバラック建ての宿舎か、騒音と高熱粉塵の作業場かに引き揚げたであろう。
今日のこの想念の円心を何処に集光すべきか、混迷は果てしなく続く。
欺瞞に満ちた聖戦(?) 完遂のためには・・・・・・・。
この日本製鉄という巨像の社長は海軍大将T氏であり、神武7611工場の所長は海軍機関中将K氏であった。
我が海軍戦力の一大基幹工場の虚構を考えてみると、平社員の私が力をふるい立向かう手練手法もないことをただ知るだけであった。

例えば、私が今日のこの非条理の現状を他言公開したとすれば、会社と憲兵は私を召喚して、消すことの出来ない烙印を押して追放するだろう。
私はこの工場に在職する限り、兵役召集は免除され、戦場に行くことは無い。
しかし、烙印を押されて追放されたらこの免除は一転して、戦場へ駆り出されることは必定である。
午後5時半退勤の後、夢前川河畔のデコボコの道を、空を仰ぎながら一人で社宅へと自転車のペダルを踏み続けた。

今夜もまた、B29の来襲があるという予感がする。
そうなれば、この道を病院へ向って急ぎ、入院中の重症患者の退避の先導をせなければならない。
はるか書写山の頂き近くには、戦争と平行しているかのような乱雲が緩く流動して、雨が降るのではないかと思わせるような空模様であった。

ちなみに、K所長は、20年8月15日の敗戦無条件降伏の後、戦争犯罪人として追放された。
その後、姫路市飾磨区の八幡製鉄系列下のN砂鉄会社とかに顧問として招かれ、閑職にあったが昭和46年に病死されたと聞き及んでいる。

 

吉備沖で漁師が被弾

空襲になると、橋を渡って余子浜や喜市の田んぼに逃げたものです。
頭から防空頭巾を被って、リュックを背負って、大ふとんを抱えて。
網干警察の裏はまだその頃田んぼだったが、揖保川より南の人は逃げるところがないから橋を渡って逃げるのでした。
私の家は警察前で、揖保川のすぐ北なので、ご近所の人達と一緒に警察裏の田んぼに伏せて大布団を被っていた。
警察の屋上から(見ると)、「布団のカバーを大急ぎで取らないと白い布が目立つ」と怒鳴られ、どうやって外したか、手が震えて夢中でした。

旧姫路市に空襲があった夜、こわごわ空を見上げたら、真っ黒な空に次々と落とされる焼夷弾の無気味な光に目が眩みそうでした。
そのうちに、下からパッと赤く燃え上がったので、一層恐ろしくなり、いつ網干にも飛んでくるかと、生きた心地もありませんでした。
実際、興浜の畑で野良仕事をしていた人がお昼の食事帰りに立ち上がった時、焼夷弾を落とされた。
すぐに、白いシャツを脱いで走ったのを、空から追い回して焼夷弾を落としたが、咄嗟に麦畑に飛び込んでかろうじて助かったという話も聞いた。

ある日、私宅の裏が揖保川なのですが、外が騒々しいので2階のベランダからのぞいてみると、人がたくさん集まっていて黒山の人だかりなのです。
私も急いで川辺に行ってみたが、人で近寄れない。
そのうちに、戸板に血まみれになった漁師を二人乗せて、警察へ連れて行きました。
その後を人々がついていって、まばらになった頃のぞいてみると、油だらけの小船の中は血の海になっていて、一瞬気の遠くなるような有様でした。
警察の表も人で一杯でした。
人の話では、吉備沖へ漁に出ていた漁師に焼夷弾が落とされ、一人は足に、一人は顔から口に当たって、
警察に運ばれた時、「腹が減っている、何か食べさせてくれ」と言っていたという噂がありました。

その頃です。警戒警報・・・・(と言って)消防団員が2、3人メガホンを持って、よくまわって来ていました。
当時は、黒赤のシス地の布でカーテンや電灯カバーを作って、警報というとすぐにカバーを下ろすように準備していました。
その警戒警報の訓練中に、主人がタバコに姫路市をつけるためにマッチを擦った時、ちょうど消防団員が外を見回っていたのですが、
すぐ家の中に入ってきて「今電気を付けた不心得者」と、えらい権幕で申されました。
「見ていただければ分かります。窓には黒赤の二枚重ねのカーテンが掛けてありますし、電球にもカバーが下ろしてあります。
今は訓練中やからタバコのマッチを擦ったのです。すみません。」と、主人が申しますと、
「訓練中でも係りの人は皆んな大変や」と、色々に口汚く言って電球二個(その電球は自由に買えなかった)を持って行きました。
その後、マッチを擦るからや、と家の中で揉めたことでした。
しかし、電球がないのでその夜は困りました。
翌朝、消防係りの家へ電球を貰いに行きました。
奥さんが出てこられて、主人が昨夜言われた通りのことを私にもえらそうに言われました。
もう一人の係りの人の家に行きますと、その人は何も言わずに球は返してあげたいが、規則もあるので警察へ行って証明を貰ってきてください。
と申されました。
警察で証明用紙を貰い、北へ行き南へ行き、やっと電球を二個返してもらいました。

なるほど、訓練中とは言え、マッチを擦ったのは悪かったけど、それを子供を叱るように頭から口汚く怒鳴られたのは心外でした。
そんなことを隣近所の奥さんと話し合いました。
だから後々まで、その家の人と顔を合わせても、前を通る時も、イヤな気持ちがいたしました。
戦争中は少しでも役持ちの人は、偉そうに振舞われました。

8月15日のお昼、天皇様の放送をお聞きした時はどんなにどんなに悲しい気持ちでしたか・・・・・・・・・。
興浜の親類に不幸がありましたので、晩にお悔やみに行きますと、途中で薄明かりの家もありましたが、それでもまだ暗くしている家が多かったのに
その(人の)家の前まで行った時は、あまりに赤々と電灯が点けられていたので、なんだか明りが恐くて、しばらく家に入って行けなくて
戸惑ったことを覚えております。

 

市役所移転の断行

戦時中の市長、原惣兵衛氏は、しきりに「勝報」が伝えられる当時から敗戦を予想し、当然、その敗戦はこの姫路市にも免れない事実として
心密かに憂(うるえ)ておりました。
このことは、ある婦人会の会合席上で漏らしたことによっても明らかである。
市長の予想は的中して、戦局は日増しに不利となり、「本土決戦」の声を巷に聞くようになっていった。
寸刻を争う時とみたのだろう。市長は断固(として)市庁舎の移転を発表した。
この一事は、市長自らが日本の敗戦を認め、姫路市も戦災の悲劇から避けられない運命にあることを全市民に宣言したのと何のかわりも
なかったと言ってよかろう。
その時の市長の移転理由は、あらまし次の3点に要約されると記憶している。
@戦争の進行から見て敗戦はやむを得ない。これに伴って我が姫路市もいずれ空襲の惨禍に見舞われるだろう。
Aこれが為、市長は市政執行上の重要書類の焼失を未然に防いで、たとえ一日でも行政事務の停止をしてはならない。
B市民はもとより、職員一人一人にとっても、自分の生命を大切にし、その犠牲を少なくすることに努める。

こうした主旨によって、各課では移転準備を進めた。
保管中の重要書類、各種台帳、参考書類等の選別。
備品、什器等の整理を終わり、一部、水道課と倉庫を残して昭和20年3月、市公会堂への移転を完了したのだった。
果たしてその予想通り、戦局は急速に悪化、本土空襲の悲報は全国主要都市から聞こえてきたのである。

姫路市も6月の川西航空機製作工場を中心とした東部の爆撃、7月の焼夷弾投下による中心市街の壊滅的焦土化となった。
勿論旧市庁舎は全焼し、その影もとどめなかったが、移転先の公会堂は10数発の焼夷弾にも耐えて、危うく焼失から免れた。
その後、終戦処理対策も混乱なく順調に実施され、治安の確保と民生安定の実を挙げ、
やがて戦災復興の市政へ力強く踏み出すことが出来たのである。

 

資料を掲載します

姫路空襲の被害状況

第一回空襲は昭和20年6月22日昼、市内北神屋町方面を襲ったもので、川西航空機鰍中心として国鉄京口駅付近が爆弾により空襲を受けた為
目的物である川西航空機の工場は全滅の被害を受け、付近民家と道路、上水道、下水道が破壊され、罹災面積は比較的小さいにかかわらず
被害は甚大であった。

第二回は昭和20年7月3日夜、市街地の全域に亘り焼夷弾により空襲を受け、総戸数の40%が焼失した。
災害の詳細は下記の表の通りである。

家族及び住民の被害

区分
死亡
重傷
軽傷
行方不明
全焼
半焼
全壊
半壊
罹災者数
罹災面積
第1回
341
113
237
10
550
5
715
81
10,220
26万坪
第2回
173
41
119
4
10,248
39
45,182

93

514
154
356
14
10,798
44
715
81
55,402
119

また、主な罹災公共建物および主要工場等は姫路駅、税務署、郵便局、動員署、市庁舎、国民学校(8)、中等学校(3)、幼稚園(1)
行路病舎、塵埃焼却場、公設市場(2)、青果物市場、診療所、屍場、川西航空機、海軍衣糧廠、師団司令部、山陽皮革、竜田紡績
山陽色素、日本化学、日本真空機、日産農林、三菱電機、東洋紡績、日本フェルト、サンエス石膏、特殊航空兵器、石産金属
劇場(7)、社寺(14)、図書館等であった。

ところが、昭和47年に発行された「神戸大空襲」の巻末に≪兵庫県下の被害状況「復興誌」(兵庫県土木部発行)より≫として
発表されている数字と若干相違があるので参考の為これもあげておきます。

罹災面積
罹災者
死者
負傷者
罹災家屋
2,894,100
57,466
519
516
12,604

 

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